戦後の占領期を、名もない”モブ”の視点から描くーー新野剛志『粒と棘』から読み解く、階層の解体
”モブ”の目線で語られる占領期の裏面史
戦後80年の夏に刊行された『粒と棘』は、数々のミステリ、ピカレスク小説、お仕事小説を手がけてきた新野剛志の20年ぶりとなる独立短編集だ。物語の舞台は終戦からまだ間もない占領期の1948〜1951年ごろで、最後の一編のみ少し時代が飛んで、すでに高度経済成長期に入り、世間が皇太子成婚にわき立つ1959年となっている。
各編には、戦後、実際にあったいくつかの出来事が反映されている。第一編「幽霊とダイヤモンド」は、終戦時のどさくさに軍関係者が隠匿した物資が題材で、元戦犯にして政界のフィクサー児玉誉士夫を想起させる人物が登場し、後のエピソードにも影を落とす。第四編「軍人の娘」には、時の国鉄総裁が謎の死を遂げた下山事件の話がほんの少しだけ出てくる。第五編「幸運な男」は、占領軍の諜報機関が中国帰りの作家を拉致監禁した鹿地事件が元ネタだ。占領期の事件を扱った松本清張のノンフィクション『日本の黒い霧』を読んだことのある方ならば、より深く楽しめるだろう。
本作はこうした、旧軍の利権、GHQの謀略などを背景に起こった事件を、名もない”モブ”の視点から描いている。第一編「幽霊とダイヤモンド」の主人公の尾高慎二は占領軍による航空産業の規制で失業した元飛行士、第二編「少年の街」の主人公の太田満作は満洲から引き揚げてきた浮浪児、第四編「軍人の娘」の主人公の芝園佳恵は戦犯に問われて自決した将官の娘、第五編「幸運な男」の主人公の磯谷四郎は占領軍の士官に雇われたコックだ。彼らは架空の人物ながら、新野剛志の筆致は、本当にこのような人々が、終戦から間もない時期の日本に生きていたのだろうと感じさせる。
『粒と棘』というタイトルの意味は、第三編「手紙」の中で暗示されている。同エピソードの主人公でGHQの検閲係を務める須坂彰彦は、男も女も若者も中年も揃って同じように働く空間で「塊の一部」になりすまして生きている、「塊」と対置されるのが「粒」だ。そして、戦後に旧知の女性と再会してその凋落を目の当たりにした須坂の感情は、「棘が刺さったように心が疼いた」と記される。須坂だけでなく、各エピソードの主人公は、いずれも人々の「塊」から外れ、心に「棘」を抱えた者たちだ。
戦後が解体した”階層”の功罪
戦前から戦後、いったい何が変わったのか。平和、自由、平等、教育や就職の機会均等といった戦後的な社会は、1945年8月の終戦と同時に、あるいは1947年5月の日本国憲法施行と同時に、いきなり始まったのではない。新野剛志は、戦後10年あまりの過渡期にいまだ残存していた日本社会の”階層”に着目している。
たとえば、第二編「少年の街」では、戦前から昭和30年ごろまで地方の農村や漁村では、子供を学校に行かせるよりも農作業や漁業の労働力に使っていたことが描写される。第三編「手紙」では、戦前に貧しい女性を危険な外地に売り飛ばす女衒をしていた男が、敗戦後は人間が平らにならされ、自分のような悪い人間が特別でなくなり、闇商売や役人の不正が横行して「みんなが悪くなった」ことに憤慨する。
第六編「何度でも」では、没落した元華族の未亡人が、戦後の日本はかつての華族や士族のような階級がなくなり平等な国になったことを、「高貴なひとーー大人がいなくなって子供の国になった」「これからの日本は戦争しないでしょうね。戦争するのは大人ですから」と語る。戦前まで、中学校以上に進学する者は人口の半数以下、大学進学者となればほんの一握りの富裕層であり、上流階級は自分たちだけの閉じたコミュニティを形成していた。だからこそ、少数者である上流階級の政治家や官僚には強い責任感があった。彼女の語る大人とは、そういう人々のことだったのだろう。
ーーただし、戦後日本において階層を解体したのはGHQの占領政策だけではない。その後の高度経済成長によって第三次産業中心の総サラリーマン社会になり、代々の名家の権威を成り立たせるような地縁・血縁にもとづいた共同体が形骸化した結果だ。
最終章にあたる「何度でも」の主人公で元浮浪児の中里小春は、階層の解体を象徴するような平民出身の皇太子妃(若き日の美智子上皇后)の姿に胸をときめかせる。このエピソードの舞台となる場所は、第一編「幽霊とダイヤモンド」と第五編「幸運な男」で、GHQによる謀略の根城に使われたのち接収を解かれた洋館だ(実際にGHQは、三菱財閥を築いた岩崎家の邸宅など都内の大きな洋館を接収していた)。そして、それまでのエピソードの関係者たちが顔を見せるとともに、2025年の現在も存命中で政界に関わるあのセレブ女性がモデルの人物が登場。戦後の占領期が、まさに本書の読者が生きる21世紀の現代と地続きであることを示している。
■書誌情報
『粒と棘』
著者:新野剛志
価格:2,310円
発売日:2025年7月31日
出版社:東京創元社