【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第14回:私を運営する私――キュレーション・推し・身体
3、「推し」の理由
21世紀の私は「私というメディア」を運営するキュレーターである。キュレーションの仕事とは、ありのままの本当の私をアピールすることではない。むしろ「私」を感度の良いフィードバック装置に仕立てるために、さまざまな情報を適切に配置し展示し、ときにキャプションを添えること、つまり情報が情報を生産するように仕向けること――それが21世紀のアイデンティティ構築の要諦である。それは、アイデンティティを構築する技術が大きく変化したことを意味する(※3)。
ところで、私は近代の自己のモデルとして、唯一無二の「本物」を志向するルソーと他者のシミュレーションを志向するディドロを比較しておいた(第8回参照)。今やルソーの『告白』のように「真実の私を見よ」と自信満々にポーズを決めても、あえなくスベるだけである。未来のサイバネティクスの世紀を予告していたのは、「私」を他者にハイジャックさせたディドロのほうだろう。
ただ、忘れるべきでないのは、ディドロの『ラモーの甥』が他者をフィードバックし続けることを、無限の苦行のようなパントマイムとして描いたことである。無我夢中で楽器のシミュレーションをやり続けるラモーの甥は、ほとんど滑稽な中毒症状を呈していた。そこには、21世紀における私の運営=キュレーションにつきまとう問題が、すでに鮮明に描き出されていたように思える。
繰り返せば、21世紀の「私」は、情報のたえざるフィードバックを通じて「独自性」を獲得しようと試みる。それは確かに、標準化の圧力からの解放をもたらした。しかし、それは裏返すと、人間がまさにサイバネティクス機械と同じく、自作自演をたえず実行し、自己研鑽を続けよという命令に縛られているということでもある。ここに、自由が不自由を培養する(ないし脱標準化が新しい標準化を作り出す)という逆説があるのは見易いだろう。皮肉なことに、≪メディア化した私≫はヴェーバー的な「鉄の檻」から解放される代わりに、今度は「自由の刑」(サルトル)に処せられるリスクを背負うことになった。
この自由にして不自由な「私」の陥りがちな罠がある。それが各種の依存症である。情報のフィードバックとキュレーションによって「私」を象るとき、その途中にいわば精神的な毒物が紛れ込んだらどうなるか?――その場合、世間の標準から離れて「自己研鑽」や「自己実現」をめざしているつもりが、依存症の悪循環のループに入り込んで抜け出せなくなるだろう。現に、アルコールや薬物に依存するように、インターネット経由で陰謀論や詐欺、ギャンブルの沼にハマってしまうことはありふれている。かつてグレゴリー・ベイトソンが「自己のサイバネティクス」とアルコール依存症を重ねて論じたのは、やはり卓見であった。サイバネティクスの世紀は中毒も拡大するのだ。
いささか唐突だが、ここで最近の流行語である「推し」について考えてみよう。「推し」も21世紀の情報環境の生み出した依存症の一つであるのは間違いない。ただし、上記の依存症との違いもある。それは「推し」の場合、メディアのなかでの独自性の獲得や自己実現をめざすのが、自己自身ではなく、赤の他人だということである。そもそも「標準化・規格化から逃れて人生を自作自演せよ」と要求されても、たいていの人間にとってそれはあまりにも負荷が大きい。ゆえに、他者の自己実現のストーリーを応援するという代替的な戦略は、ある意味では非常に合理的である。
ふつう≪メディア化した私≫の運営においては、プレイヤー(=メタレベルで観察する人間)とキャラクター(=オブジェクトレベルで行為する人間)は自己のなかに重なっている。それはいわば「自分で自分を推す」という状況であり、失敗の結果と責任はすべて当人が背負わなければならない。しかし「推し」の場合は、推すプレイヤーと推されるキャラクターが切り離されているので、仮にキャラクターの自己実現がうまくいかなかったとしても、それはプレイヤーにとって致命的な打撃にはならない。
ベイトソンはお互いにより大きくなろうと競いあっている関係を「対称的」、お互いが補いあうような関係を「相補的」と呼んだ(※4)。わかりやすく言えば、前者はいわばツッコミしかいない状態、後者はボケとツッコミがお互いに役割を補完しあっているような状態を指す。各人が自己研鑽を競いあう独自性の文化はしばしば「対称的」になり、敵対するライバルどうしの羨望や嫉妬を増大させ、不安や失望、期待外れをも募らせる。逆に、「推し」はあえて自己をファンの役割に限定する。推す/推されるという関係はまさに「相補的」であり、競争的=対称的な社会からいったん身を引いて、自己実現のフィードバック・ループを他者に預けるという戦略を際立たせたものである。
※3 ハンス・ジョージ・メラーらは「アイデンティティの技術」の変遷に着目し、前近代の誠実さ(sincerity)、近代の真正さ(authenticity)、現代のプロフィール性(profilicity)という三つの類型を定めた。誠実さとは、共同体の与える役割に忠実に順応することである。18世紀以降は、この役割志向の外面的な自己を批判し、内なる「本物」の自己を追求することが、主にロマン主義の文学を中心に進められた。
しかし、今やアイデンティティのテクノロジーは新たな段階を迎えている。それは、真正の自己を語るのではなく、他者に映る自己イメージ、つまり「プロフィール」を操作するという段階である。そこでは、他者の観察を観察するという「セカンドオーダーの観察」(ニクラス・ルーマン)に根ざしたアイデンティティの技術が成長する。今やルソー的な「本物」は他者の反応を呼び込まない。むしろ他者を反応させるプロフィールの充実こそが、私というメディアの運営に有効なのである。Hans-Georg Moeller & Paul J. D’ambrosio, You and Your Profile, Columbia University Press, 2021.
※4 グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ(中)』(佐藤良明訳、岩波文庫、2023年)328頁。
4、無言で「私」を実行する身体
ただ、この相補的な「推し」にしても、容易に重度な依存症や中毒の沼にハマってしまうのは明らかである。つまり、推している自己そのものが往々にして目的化・中心化してしまうのだ。むろん、何かに熱中するのが一概に悪いわけではない。しかし、文化から他者性を削ぎ落とし、自己研鑽(キュレーション)の素材に変えてゆく21世紀の情報環境が、私を運営する私を不自由なループに閉じ込めがちであることも否めない。
では、どうすればよいのか。この状況を改善するには、情報環境のフィードバック・ループの外に、別の関係のループを設定するのがよい。私は前回、小説が「遅いメディア」であるがゆえに、情報社会の鏡像的な反射のゲームから逸れる可能性を示した。その延長線上で、いたって素朴なようだが、人間が身体をもつことの価値に照明を当ててみよう。
誤解を避けるために言えば、私は身体こそが本来的で、情報は二次的なものにすぎないという、凡庸な疎外論を語りたいわけではない。この身体の神秘化は、結局のところ、身体を無化する情報一元論のイデオロギーとコインの裏表である。実際、メタバースによって身体から離脱することも、あらゆる情報を遮断して身体に回帰することも、いずれも解放の手段としてはあまりにも単純すぎるだろう。そもそも、身体を情報から完全に切り離すことはできない。パロール(音声)はすでにエクリチュール(書かれたもの)に感染しているというジャック・デリダ的な認識を応用すれば、いかなる身体(自然)も情報(文化)の感染を免れない。
この前提に立って、それでもなお身体の価値を考えるのに、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の洞察は今も色あせることはない。ツァラトゥストラは精神への過大評価を戒め、身体こそが偉大な理性を備えた「知られざる賢者」にほかならないと述べる。
「私」とお前は語り、この言葉を誇りとしている。だが、お前が信じたくないと思っているもの――お前の身体とその偉大な理性の方が、ずっと偉大なものなのだ。その理性は、口に出して〈私〉とは言わないが、無言で〈私〉を実行する。(※5)
身体は「私」(エゴ)を口にすることなく「私」を為す――このニーチェの指摘は、本質的な問題を言い当てている。言葉を用いずに「私」を実行する身体の価値は、ソーシャルメディアやAIによってかえって鮮明になったように思える。
卑近な例で言えば、対面でしゃべるとき、ふつうはそれほど大きな声で話す必要はない。身体どうしが近接しているという、ただそれだけのことが、すでにコミュニケーションの成立をある程度保証しているのだ。逆に、インターネットでは、相手に声が届いているか不安になるあまり、不必要に過激なことを言いがちである。話を始める前に、身体があらかじめコミュニケーションの通路を――ときには相手への負の印象も含めて――組織する。身体はコミュニケーションにつきまとう多くの労力を、あらかじめ省略している。
AIがいわゆる「フレーム問題」に直面する理由も、ここから理解できるだろう。AIに現実の問題を解決させようとするとき、予想外の出来事もすべて含めてあらゆる可能性を考慮しようとすると、情報処理量が爆発的に増大してパンクしてしまう。ゆえに、必要な情報だけを「フレーム」する必要があるが、今度はそのフレームをいかに設定するかというメタレベルの問題が生じ、問題はいっこうに解決しない。逆に、身体という「理性」は、情報処理のフレーミングをそのつど変える技術を進化的に獲得してきた。その能力を機械で置き換えるには、途方もない労力が必要となるだろう。
沈黙のなかで「私」を為す身体――この「知られざる賢者」は社会的なコミュニケーションの土台である。われわれは身体という理性をしばしば忘れて、≪メディア化した私≫の情報的な運営やキュレーションに没頭するが、それは片方の車輪だけに過大な負荷をかけることになる。≪私≫はあくまで両輪で動かさねばならない。情報と身体はパラレルに、つまり二元論的に並走している。21世紀の情報一元論はこの並行性を見失っているのである。
※5 ニーチェ『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳、中公文庫、新版2018年)。なお、この一節は、ヒューバート・L・ドレイファス『インターネットについて』(石原孝二訳、産業図書、2002年)で引用されている(7頁)。