『べらぼう』で注目、江戸時代の食文化の魅力とは? 江戸料理文化研究家・車浮代の『味と人情』評
放送100年を記念した今年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』は、大河ドラマ史上初めて、江戸中期が舞台&町人が主人公になったこと、さらにその主人公である蔦屋重三郎がほとんど無名であったことで、放送前から注目を集めていた。いざ放送が始まると、ドラマ全体の質の高さからファンが急増し、今や各所で蔦重に関連した展覧会が開かれ、ゆかりの地では江戸が再現され、多くのグッズが販売されている。
江戸時代の食文化への関心も高まり、おかげさまで私の元にも多くの講演依頼が寄せられるようになった。私が江戸時代の食文化を研究して約15年。ちょうど同じ頃、料理人や食をテーマにした時代小説が大人気となり、今や一つのジャンルとして確立されている。巻内にレシピが掲載されていることも珍しくはなく、読者は、読む楽しみと作る楽しみ、食べる楽しみを味わえるようになったのだ。
本書『味と人情』(中央公論新社)は八つの短篇作品が収められているアンソロジーであるが、その先駆者とも言うべき池波正太郎作品を幕開けに据えたのは納得の配慮で、読む側の期待が高まる。『鬼平犯科帳』しかり、『仕掛人・藤枝梅安』しかり、『剣客商売』しかり、登場人物たちはなんと美味そうに飯を食うことか。
池波正太郎をよく知る選者の細谷正充氏は、巻末の『編集解説』で、「若い頃から食べ歩きをしていたという池波は、とにかく美味しいものを食べるのが大好き。食に関するエッセイ集を、何冊も出版している。」とあり、私も小説に出てくるレシピ本を所有し、その多くを再現してきた。中でも「鴨入り卵かけご飯」は絶品である。池波センセイ、実は絵も達者で、台東区中央図書館内の「池波正太郎記念文庫」では、味わいのある原画を見ることができる。
掲載作品のタイトルは『蕎麦切おその』。主人公のお園は、信州飯山の出身で、酒と蕎麦しか口にできないという異常体質の持ち主。そのせいで苦労をしつつ、東海道藤沢宿の旅籠に引き取られ、女中奉公を始める。
お園が逞しいのはここからで、どうせ蕎麦しか食べられないのならと、蕎麦打ちを極めるのだ。美味いのはもちろんのこと(浅草の有名蕎麦屋の主人を唸らせたほど)、パフォーマンスも素晴らしい。打って茹でて水で晒した蕎麦を、博多のラーメン屋の替え玉のごとく、客の器にぽんぽんと投げ入れるのだ。この辺りの描写は目に浮かぶように鮮やかだ。
お園の芸は客を呼び、旅籠を儲けさせる。コンプレックスをバネに、厄介者から重宝される人間に成り上がるまでは良かったが、増長したお園は人間関係でトラブルを起こしては落ち着き先を変えるのだが……というストーリーである。果たして、お園の心の落ち着く先は?
第二編は『木枯し紋次郎』シリーズで有名な笹沢左保の『塩むすび』。捨て子のおみつは義母に辛く当たられながら、マッチ売りの少女さながら健気に生きている。救いの手が差し伸べられようとするが……。ショートショートながら、「それは狡い!」と笑みが溢れるほどの結末が待っている。
第三編は『慶次郎縁側日記』シリーズなどの代表作を持つ、北原亞以子の『こはだの鮓』。「あじのすう(鮓) こはだのすうと にぎやかさ」という知られた川柳がある。鯵も小肌も下魚だが、なれずし(ご飯と塩に漬けて乳酸発酵させ、魚肉だけ食べる)にすると、やたら美味くなると人気であった。
浅草の葉茶屋の下男・作兵衛はある日、売れ残りのこはだの鮓を一折貰う。一二、三個入りとあるので、買えば五十文(1200円前後)だろう。それでも作兵衛にとっては贅沢品である。大好物を前にして、ちょっとだけ、もうちょっとだけと我慢できずに食べてしまう心理描写は細やかで、微笑ましく思いつつ読み進めていくと……。欲に負ける人間の愚かさに気づかされる作品である。
第四編は乙川優三郎の『蟹』。時代小説初の山本周五郎賞を受賞した『五年の梅』に掲載されている一編である。藩の中老の庶子に生まれて養子に出され、早々に嫁がされた志乃だが、実父が亡くなると厄介払いとばかりに次々婚家を追い出される。三番目の夫は、貧しいあばら家に住みながらも、山盛りの丸蟹で志乃を迎え入れてくれた。優しく実直な夫に、やさぐれていた志乃の心は解きほぐされ、慎ましくも二人だけの自由な生活を愛おしく思うようになる。ところが、自棄になって浮気をしていた頃の男たちが志乃の前に現れ……。思わず応援したくなる、心温まる夫婦愛が描かれている。