今村翔吾 根幹にある作家性が浮き彫りに 南北朝時代を舞台にした父子物語『人よ、花よ、』
明治以降、天皇を中心とした中央集権国家を創設するにあたって、かつて天皇に対抗した為政者たち――たとえば、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏のような人物(「承久の乱」で後鳥羽上皇と対決した、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時も、そのひとりだろう)は、いわゆる逆賊として正当な歴史的評価を与えられないどころか、その人物を研究することすら御法度であったという。その一方で、天皇の忠臣として過大に評価されるのみならず、ある種の偶像として国家的に称揚されていた人物がいる。楠木正成は、その最たる人物のひとりだろう。今村翔吾の小説『人よ、花よ、』(朝日新聞出版)は、そんな大楠公=楠木正成の嫡男である小楠公=楠木正行(まさつら)の物語だ。
舞台となるのは南北朝時代(1336年-1392年)の初め頃。京から吉野に下った後醍醐天皇が打ち立てた南朝と、足利尊氏が擁立した北朝という2つの朝廷が、同時に存在しながら対立していた時代だ。後醍醐天皇の命を受けた楠木正成が足利軍に敗れ、壮絶な死を遂げた「湊川の戦い」から約10年後、楠木党の若き当主である多聞丸(正行)は、自身の領国である河内国を治めながら、来るべき日に備えて着々と準備を整えていた。しかし、後醍醐天皇はすでにこの世を去り、圧倒的な軍勢を誇る北朝に対して、南朝の勢いは衰えるばかりだ。その事態を憂慮した南朝の実質的な指導者・北畠親房は、挙兵を促すべく、多聞丸のもとに何度も使者を送ってくる。父・正成がそうであったように、子・正行も南朝に忠誠を誓い、北朝と戦うのだ。けれども多聞丸は、その返答をかわし続けているようだ。果たして彼の本心は、どこにあるのだろうか?
ところで、上下巻にわたる大長編作となった本作『人よ、花よ、』は、少々変わった構成になっている。冒頭から馬を駆って颯爽と登場する多聞丸ではあるものの、彼はなかなか行動に出ないのだ。その序盤は主に、彼と母(すなわち正成の妻)の対話によって展開する。そこで語られるのは、父・正成が寡兵をもって鎌倉幕府軍を撃退した「赤坂城の戦い」や「千早城の戦い」――さらには、正行にとっては父の最後の記憶となった「桜井の別れ」から「湊川の戦い」まで。それは、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の成立に至るまでの経緯――すなわち、多聞丸が置かれている複雑な状況と立場を、その時代に不慣れな読者にも、わかりやすく伝える意味合いもあるのだろう。ただ、そこで気になるのは、ひとつひとつの出来事に対する母と子の捉え方が、微妙に食い違っていることだった。そもそも、母と昔語りをしながら、多聞丸はずっと彼女に何かを告げようとしているようなのだ。それはやがて明らかとなる。彼は南朝ではなく北朝に与する決意を固めていたのだ(!)。そこから物語は急激に動き始める。
北朝に与すると言っても、その手続きはいろいろだ。誰をつなぎとするべきか。というのも、足利尊氏の弟であり、主に政務を司る足利直義と、足利家の執事であり、主に軍務を司る高師直の対立が、どうやら避けがたいものとなっているから。そのどちらを選ぶかで、楠木党の未来は変わってくるだろう。弟・次郎(正時)、野田正周、大塚惟正、和田兄弟など、楠木党の幹部たちと議論を重ねる多聞丸が、ようやくその決断を下した頃、不測の事態が起こる。そこで南朝の女官である弁内侍・茅乃と出会った多聞丸は、彼女を通じて思わぬ形で後村上天皇と対面することになるのだ。後醍醐天皇を父とする、多聞丸と同じ年ごろの後村上天皇。彼の中に、自分と同じ苦悩を見出した多聞丸は、自らの選び取る道を再び模索し始めるのだった。