【追悼】篠山紀信「カメラマンなんて偉くないよ」元編集者が語る、激・仕事術と写真の哲学

 2024年1月4日に83歳で天国に旅立った写真家の篠山紀信。誕生日にあたる2024年12月3日(火)には「篠山紀信先生を偲ぶ会」が執り行われ、野田秀樹、市川團十郎、コシノジュンコ、水沢アキら生前に親交のあった多くの著名人を含む約400人が参列した。芳名板にはオノ・ヨーコとショーン・レノン、松田聖子、宮沢りえなどの名前が並び、多くの人に慕われていたことが窺える。

 篠山紀信はどういう人だったのか。雑誌「GORO」や「小学五年生」「小学六年生」などの編集部などに在籍し篠山紀信と関わりのあった小学館OBの根本恒夫氏が、当時のエピソードを語ってくれた。

普通の女の子の一番輝いている瞬間を切り取る

 篠山紀信を語る上で外せないトピックの一つが1975年から「GORO」で連載していた「激写」シリーズだろう。根本氏は当時を振り返りこう話す。

「当時、篠山さんは山口百恵などの、いわゆるメジャーな写真を多く撮っていましたね。しかし、『芸能人ではない普通の女の子でも、その子が一番輝いている瞬間を切り取れば男性雑誌の巻頭グラビアを飾れるはずだ』というコンセプトのもと、1975年に『激写』は始まったんです。ブームになっていった背景には、アンディ・ウォーホルの『誰しも15分間なら有名人になれる』という言葉が1960~70年代頃に流行していたことの影響もあると思います」

「激写」は基本的に事務所などに所属していないアマチュアの女性を編集部でスカウトして起用していたという。

「篠山さんはものすごく真面目な方で、私たちがスカウトして連れて行った女性をポラロイドで撮影し、それをいつも持ち歩いて『この子だったらどういう写真が撮れるかな』『この子はどのように撮られたいのかな』という事を常に考えていました。そうして『この子は北陸の海の方で撮りたい』『この子は海外で撮りたい』といったアイデアが出てくる訳ですから、編集部としては大変でしたね。ある程度まとまった人数でハワイに行って撮影したこともありました。

 篠山さんは被写体の女性をどうやったら一番美しく撮れるか、それこそ一人ひとりの女性に対して真面目に接しながら、作品に対して一所懸命に取り組まれていました」

 その結果「激写」は大反響となり、「激~」という造語が生まれ、流行語にもなった。『GORO』は92年に廃刊となったが、激写文庫と名付けられた書籍群なども合わせるとシリーズは20年近く続いた。

「篠山さんは山口百恵さんなどメジャーなもの(人)が大好きだった。だけどそれと同じくらい普通の女の子にも価値があると信じていたから、長く連載を続けられたんだと思います。実際、『135人の女ともだち』という”普通の女性”の写真集もヒットしました」

 また、篠山氏は「GORO」の表紙や巻頭ポスターも撮影するなど、「貪欲にたくさん仕事をしてたくさん稼ぐ」というスタイルだったそうだ。根本氏は「激写」の時の「激食」と呼ばれたエピソードも教えてくれた。

 「例えば地方のロケに行った際、その土地にある肉屋で本当に美味しいコロッケを100個買って被写体の女性やスタッフみんなに配る、といったことをやるんですよ。お寿司やイタリアンだったこともあります。とにかく食べ物でもワインでもなんでも、貪欲に一番高くて贅沢なもの、一流のものを嗜むのが彼の流儀でした。『いっぱい食わないといい写真が撮れないぞ!』と。みんなで食べて飲んで盛り上がってその勢いで写真撮りましょう、という感じでしたね」

カメラマンブームの中心人物、時代の寵児へ

「1970年代の初頭ぐらいでしょうか。立木義浩さん、沢渡朔さん、十文字美信さんらが牽引したカメラマンブームがあったんです。カルチャーの中でカメラマンが注目されたその時期において若手のトップだったのが篠山紀信さんでした。

 キャリア初期に撮った『Death Valley』で一気に時代の寵児になっていきました。ある時期は有名になったものの、その後、注目されなくなってしまう人も多い中で、篠山さんは最後の最後まで先頭に立って走りきったわけですから、本当にすごいと思います」

 また、篠山氏は「金を稼がせてやるから金を使わせてくれ」というスタンスだったそうだ。単に金をせびるのではなく「なんとかお金になるものを作ろう。ビジネス的に成り立たせよう」ということも常に考えていたからこそ、トップであり続けることができたのかもしれない。

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