エラリー・クイーン「国名シリーズ」の誤情報が日本のミステリに与えた影響ーー有栖川有栖の最新作から考える

■エラリー・クイーン「国名シリーズ」の事実

 従来、エラリー・クイーンの「国名シリーズ」の10冊目として紹介され、『ニッポン樫鳥の謎』『日本庭園の秘密』などの邦題で知られていた長篇“The Door Between”が、実は「国名シリーズ」ではなかった——という事実は、近年は日本のミステリファンのあいだで常識として定着しつつあるようだ。

  “The Door Between”については、雑誌掲載時には“The Japanese Fan Mystery”というタイトルだった——というもっともらしい情報が日本では戦前から流布されていたけれども、これも誤り。「国名シリーズ」が9冊では中途半端でキリが良くないという印象と、クイーンに日本をタイトルに冠した作品を書いていてほしいという願望との相乗効果がこれらの誤情報のもとになったと考えられる。

  ただし、笠井潔の「矢吹駆シリーズ」や綾辻行人の「館シリーズ」などが全10作で完結の予定なのは「国名シリーズ」に合わせての構想だから、この誤情報が日本のミステリ界に与えた影響は決してマイナスばかりだったわけではない。「国名シリーズ」が実は9作だという事実が早くから知られていたら、それらのシリーズも9作で終わっていた可能性があるのだから。

エラリー・クイーン『境界の扉 日本カシドリの秘密』(角川文庫)

  その“The Door Between”が、『境界の扉 日本カシドリの秘密』という邦題で角川文庫から2024年6月に刊行された。原題に忠実な邦題に、これまで定着したイメージを踏襲した副題をつけるという折衷作戦である。訳者は角川文庫の新訳「国名シリーズ」など、クイーン作品の邦訳を多く手掛けている越前敏弥。

  この新訳で改めて読み直してみると、1930年代当時のクイーンの日本に対する認識には「一体どこからそんな誤った情報を得たのか」と頭を抱えたくなるところもあるにせよ、かなり好意的かつフェアに日本という国を捉えようとしていることもわかる。殺人の嫌疑をかけられるエヴァ・マクルーアという女性の視点で進行することで、サスペンスが盛り上がるのみならず、「彼女が犯人でないならば犯行が可能そうな人物が見当たらないが、では真犯人は誰なのか」という不可能興味が強調されている点が巧い。

  また、本作ではエヴァの側に立つ探偵エラリー・クイーンと、彼女を疑う父親リチャード・クイーン警視という、父と子の正面対決が見られる点はクイーン作品として珍しい。息子に関して時には愚痴をこぼしつつも誇りにしているイメージが強いクイーン警視だが、容疑者側から見ると実に手強く恐ろしい相手であることがわかる。伊達に犯罪都市ニューヨークで警察官を長年やってきたわけではないのである。

  さて、この作品の昔の邦題を踏まえた日本のミステリ小説としては、北村薫が2005年に上梓した『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』(創元推理文庫)が知られているけれども、2024年は『境界の扉 日本カシドリの秘密』新訳刊行に合わせたかのように、この作品を意識したミステリが次々と発表された。偶然とは言いながら興味深い現象である。

  まず、5月に刊行された大山誠一郎の連作短篇集『にわか名探偵 ワトソン力』(光文社)。彼がその場にいると居合わせた事件関係者たちの推理能力が飛躍的にアップする——という特殊能力「ワトソン力」を持つ警視庁捜査一課の刑事・和戸宋志の活躍(?)を描いたシリーズの2冊目だが、その中に「ニッポンカチコミの謎」という作品が含まれているのだ。

  非番の日に酔っぱらった和戸はスナックと勘違いして、大瀬会という暴力団の事務所に迷い込んでしまう。そこに、物置部屋に死体があるという報告が……。防弾チョッキを身につけ、右手に拳銃を持っているという、敵対する組を襲うカチコミの恰好をした他殺死体だった。事務所は密室状態であり、組員の誰かが敵の鉄砲玉を返り討ちにしたとしか思えないが、自分がやったと名乗り出る者はいなかった。

  ここでシリーズのお約束通り和戸の「ワトソン力」が発動し、組員一同の推理合戦という世にも珍奇な光景が繰り広げられるのだが、中でも組長は「ワトソン力」発動以前からエラリー・クイーンの愛読者であり、組員たちにまるで鉄砲玉を募るかのように推理を披露しろと促したりする。「暴力じゃねえ、ロジックだ」「エラリーの伯父貴も言ってるぜ」等々の名言・迷言の連発が爆笑を誘うが、事件の解明自体は極めて意外かつロジカルだ。

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