恐怖はなぜ時間の流れを遅くするのか? 精神科医が考察する「恐怖の正体」

 精神科医である著者の春日武彦が、さまざまな恐怖の特徴とそこでの人間の心理を深掘り。治療目的ではなく〈好奇心全開かつ自虐的に〉、恐怖が人を惹きつけてやまない理由を考察していく。そんな興味深い試みを記した一冊が、先月9月21日発売の本書『恐怖の正体』(中公新書)である。

 そもそも「恐い」という感情はどこから来るのか? 本書で恐怖を構成する要素として仮定されるのが、①危機感、②不条理感、③精神的視野狭窄の3つである。車と接触しそうになる・強盗に襲われるなど、試しにベタなシチュエーションを想像してみる。すると確かに「やばい終わった」「なんで自分が」「もはや逃げ道はない」と、3要素によって恐怖を感じることがわかる。

 目の前に危険がなくても生まれる恐怖というのも存在する。それが人間の不安や屈託の転化した恐怖症だ。たとえば高い場所にいても普通、身に危険の及ぶ可能性はないはずである。ところが高所恐怖症の人々は墜落の瞬間を想像し、魔がさして自分が身を投げてしまわないかという心配や、高さそのものがもたらす不条理感から恐慌状態に陥るのだろうと推測される。甲殻類恐怖はこの恐怖症を抱える著者によると、海老や蟹など甲殻類の形状や何を考えているのかわからないゾンビ的な不気味さに対する「嫌悪感」が、危機感の代わりとなるらしい。

 さらにあらゆる恐怖を忘れがたいものとするのが、恐怖を感じた瞬間に流れる時間の奇妙な遅さである。ここで事例として登場するのは、「G」こと大抵の人が苦手な例のアイツである。

 それは著者が家でゴキブリを目撃してしまった時のこと。目撃してからゴキブリが逃げようとするわずかの間に、不快にもかかわらずその姿を詳細に観察し、床の模様やダイニングテーブルの脚を眺めていた記憶があるという。こうしたミクロな視点と時間のゆっくりと過ぎていく感覚が生まれるのは、恐怖を覚えた瞬間に大量のアドレナリンが放出されて脳が活性化状態となるのに起因する。さらにモルヒネの一種であるエンドルフィンの分泌によって心が落ち着いて、恐怖の苦痛からしばらく逃れることができたのだ。

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