村上春樹『街とその不確かな壁』を読み解くカギとなる「イエロー・サブマリン」の違和感

 作中で鳴る音楽の少なさ。それが村上春樹の新作長編となる本書『街とその不確かな壁』(新潮社)で、大きな特徴の一つとなる。物語に出てくるロック・ポップスにジャズやクラシックの曲名、アーティスト名、歌詞の引用。これらは登場人物の心理や話の展開を象徴・示唆する要素として、村上作品に欠かせなかった。ところが今回、もう必要としなくなったのか?と思うぐらいになかなか音楽が登場しない。

 本書は三部構成で、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)の基にもなった単行本未収録の中編「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980年9月号)、そのリメイク版が第一部となる。

 高校3年生の〈ぼく〉は、エッセイ・コンクールの表彰式で出会った1学年下の〈きみ〉と付き合っている。離れた地域に暮らしていて、会うのは月に一度か二度。散歩をしたりカフェで過ごしながらひっそりと会話に耽り、そこで〈きみ〉は現実には存在しない街の話をする。〈本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの〉(※「本当の」に傍点)。彼女が語る街の詳細をノートに記録しながら、その街に入って本当の〈きみ〉に会いたいと〈ぼく〉は願う。だが二人の関係は〈きみ〉からの連絡が途絶えたことで、突然終わりを迎えてしまう。

 〈きみ〉のことを考え過ぎないように、大学進学を機に上京した〈ぼく〉。帰郷した際に彼女の家を訪ねてはみたが、そこにはもう住んでいないようだった。それから20年以上経ち、40代半ばになっても思いを捨てきれない。いつしか〈ぼく〉は、〈きみ〉の話していた高い壁に囲まれた街に迷い込んでいる。高校時代の記憶と並行して描かれるその世界の中で、古い夢を読む「夢読み」の仕事に就き、図書館に勤める彼女と再会できたのだが……。

 主人公の一人称が、〈ぼく〉から〈私〉に変わる第二部。街に留まるつもりでいた〈私〉は、経緯の不明なまま現実世界へと引き戻されている。これまで通りの現実での生活が自分にはそぐわないものと思うようになり、会社は辞めてしまった。その後〈図書館以外に、私の行くべき場所はない〉と気づいた〈私〉は、福島県のZ**町にある町営図書館の館長に転職し新生活をスタートさせる。そしてある日、女性が一人で切り盛りする駅の近くのコーヒーショップに入る。

 紙の書籍版で600頁以上ある本書(電子書籍版も同時発売されている)の365頁目に当たるこの場面において、やっと音楽が流れてくる。店内のスピーカーから聴こえてきたのは、デイヴ・ブルーベック・カルテットの演奏する「Just One of Those Things(よくあることだけど)」。元はコール・ポーターが1935年にブロードウェイ・ミュージカル『ジュビリー』のために作り、恋の終わりに関する歌詞の付けられた曲だ。本書ではBGMとしてだけでなく、〈私〉が過去に区切りを付けて新たな恋に向かおうとすることを仄めかす曲にもなる。〈私〉はコーヒーショップに通い店員の女性と親しくなっていき、そこでは他にも恋を連想させるジャズのスタンダード曲が流れてくる。

 とはいえ作中に出てくる曲名・アーティスト名は、結局のところ20にも満たない。ひとつ前の長篇『騎士団長殺し』では、第1部だけで40以上出てきたことを考えても明らかに少ない。ロック・ポップスに至っては、スピーカーから曲の流れてくるような場面は一度もない。ただし、ある1曲が別の形で何度も登場し、〈私〉が〈音楽というものを全く聴かなかったな〉と回想する世界において大きな存在感を放つ。

 町営図書館に毎日のようにやってくる、「イエロー・サブマリン」の潜水艦の絵が描かれたヨットパーカーをいつも着ている少年。彼は人に生年月日を聞いては、その人の生まれた曜日を正確に言い当てる。さらに本を読めばカメラで写したかのように内容をそっくりそのまま暗記してしまう。

関連記事