後藤護 × 菊地成孔『黒人音楽史』対談 「抑圧が強くなった時代の次にはまた爆発が来る」

抑圧が強くなった時代の次にはまた爆発が来る

後藤:菊地さんはそもそもマニエリスムという概念を何で知ったのですか。
 
菊地:ムーンライダーズの『マニア・マニエラ』(1982年)というアルバムです。鈴木慶一さんは、本作はロックからニュー・ウェイヴへ移行する状態にあって、それをマニエリスムだと宣言していました。当時の鈴木慶一さんの言葉をいくらかき集めても、実際の美術史上のマニエリスムの理解にはなかなか到達できないんですけれど(笑)、要するにルネサンスからバロックへの移行期に興った変な様式があって、マンネリの語源になるなどネガティブな意味合いで使われてきたけれど、20世紀になって再評価されてきたということで、そこに慶一さんがグッときたんでしょうね。僕らはバブルやテクノの直撃世代なんですけれど、ちょうど同じ頃の1983年には浅田彰さんや中沢新一さんが出てきて、『ビックリハウス』(1974~1985年)というサブカルチャー雑誌もあって、学者とポップカルチャーの距離が近かった。後にその流れは渋谷系とかに結実していくんだけれど、そのアンダーグラウンドでもオーバーグラウンドでもない中間くらいにいたサブカルのアーティストは、フラクタルとマニエリスムとか、あらゆる学問分野の用語を盛んに使っていた。で、インタビューでアルバムのコンセプトなどを語っていたわけです。僕らはそういう「ニューアカという熱病」を経ているから、鈴木慶一さんが言っていたマニエリスムって、少なくとも視覚的にはなんだったんだろう?って調べたんですよ。ほとんどの人は、熱病が治ったら元気になっただけですけど(笑)。
 
後藤:なるほど。確かに『ロック・マガジン』や『フールズ・メイト』の80年代前半のバックナンバーを読むと、北村昌士、秋田昌美、阿木譲のような人たちが澁澤龍彥文化圏を背景にマニエリスムという言葉をめちゃくちゃ使ってますよね。たぶんマニエリスムが何なのか正確に分かってない状態で使ってるんですが、おどろおどろしいレイアウトも相まって迫力だけは異様で、この胡散臭さを僕は全面的に肯定し復活させたい(笑)。僕の先生の高山宏さんは、マニエリスム研究の革命児であるグスタフ・ルネ・ホッケに倣って、ありとあらゆる国や時代にマニエリスムがあると言ってます。ホッケが『文学におけるマニエリスム』って本で強調してるのは、ヨーロッパの美的構造の中にアジア的な怪奇要素が入ってきて、フリクションが起きるときにマニエリスムはキメラとして生まれると。異なる文化と文化がスパークするところに異種混淆言語が生まれるんだと気づいたとき、現代においてその最たる場所は人種のるつぼであるアメリカなんですね(まあ正直グレートユーラシアのほうが今は旬ですが)。そして究極はヒップホップのラップなのだと思った時に、この本の構想が生まれました。といって北米限定、さらに白と黒の対立構図に終始してしまったので、いずれカリブ海や中南米にまでマニエリスムの射程を延ばしたいですね。
 
菊地:この、一見、文学者的なオレオレ本に見える歴史書から、不思議と個人史的な偏りはあまり感じなかったし、本当にちゃんとした歴史の本だと思いました。ホッケがありとあらゆるところにマニエリスムがあると言い切ったことで、いろんな人がその思想にカブれちゃったので、この『黒人音楽史』もそういうパトスだけで書かれているという印象を持つ人もいると思うんです。だけど、この本を一読して思ったのは、天啓に近いワンアイデアだとしても尚、かなりプランニングされている本だということです。もっとも黒人が出てこない西洋美術史と、黒人の精神文化史を繋げるという転倒を起こして、しかもそれをちゃんと成立させて、でもオカルトにならずに、正史を浮かび上がらせる感覚は非常に21世紀的というか。
 
後藤:菊地さんが魚のホッケでも法華経でもホーホッケキョウでもなく、ルネ・ホッケのことを発語していることに感動を覚えます(笑)。じつは僕自身はパトス側の人間ではあるんです。マニエラ(手法)をマニア(狂気)まで高めるのは、エトスでもロゴスでもなく常にパトスですから。ただ、書き始めたのがBlack Lives Matterが盛り上がっていた2020年頃で、良い感じだなあと思った反面、SNSのマナー(マニエリスムの語源です)が散々たる様子だったので、もうちょっと距離を取ったクールなスタンスにしたかったんです。それで、「ワッツ暴動で黒人の怒りが爆発した! ……あとに生まれた黒人玩具会社シンダナ・トイズに最大の資金融資をしたのはバービー人形をつくってるマテル社であることはご存じだろうか?」と膝カックンするような本になっていきました。BLMは黒人の命の問題なので、非生命である人形は単にトリヴィアルであるかのように誰も調べようとしませんね。とにかく基本的にはパトスの人間だけれど、SNSをやらざるを得ない立場として、思ったことをストレートに表現してしまうのは危険だなと。ニーチェの言う「感情の饒舌に抗して」ですね。
 
菊地:SNSなんてパトス殺しの装置ですよ。恐ろしいですよあれ。
 
後藤:この本で詳しく述べている暗号とか迷宮といったキーワードは、SNSの歪みを回避する術でもあります。要は、簡単にわからないようにしてしまえば良いというか。最短距離で出口に行きたい人もいるんだけど、迷宮の中でさまよっていること自体が気持ちいいという精神もあるわけです。合理なんて気持ち悪いとしか思わない人たちが歴史上、一定数いるんですね。啓蒙主義が強力だった18世紀末に、荒唐無稽きわまる中世の亡霊を復活させたのが僕の専門のゴシック・カルチャーです。古代ギリシアの均整美の復活だったはずのルネサンスですが、15世紀末にはネロの黄金宮が掘り返されて「グロテスク」概念が生まれた。19世紀末はヴィクトリア朝的モラルが重視されたけれど裏側では腐爛したデカダンとダンディ文化があった。ヨーロッパだけ見ても、時代を振り返るとつねに世紀末は大炎上してるんですね。規制や道徳で締めつけても人類は2~30年くらいで息苦しくなるというサイクルは常にあるので、SNSやコロナの抑圧が強くなった時代の次にはまた爆発が来ると思うんです。そういう予言を込めた本でもあります。祝祭と狂乱の1920年代から、今がちょうど100年であることに変な意味をもたせたい人がもっと出てほしいなあ。
 
菊地:僕と大谷くんはずっとそれ考えてるけど(笑)。ヨイショするわけではないけれど、ペダンチックな言語感覚も含めてこういう本が良いとされる時代が来るんじゃないかな。SNSの文法に比べるとめちゃ重いんだけれど、それがむしろポップだと感じました。また、最後のウータン・クランの章でちゃんと結論を述べているのも良い。ダイダロスとデュオニュソスの対立が深まることによって、ケンドリック・ラマーみたいなアーティストが出てくるというところまでは他の批評家も言うところでしょうけれど、「ウータン・クランこそがアフロ・マニエリスムの現時点での最高到達地点なのだ」と言いきってしまうのはすごい(笑)。僕はタイラー(ザ・クリエーター)もアウトキャストもアフロ・マニエリスムだと思うけれども、もしも結論がないままだったら、それこそ魔術化はしなかったと思う。一見すると散らかった小部屋から魔術が立ち上がるか否かは紙一重で、ものさえ山積されていれば魔術が立ち上がるかといえばそういうわけでもない。そこには一見無関係に思えるものを繋げていく愛情――言い換えると饒舌さが必要であって、その饒舌さによって結論にまで至ることができている。
 
後藤:「繋げていく愛情」ってずばりアナロジーの問題ですよね。菊地さんの「粋な夜電波」に有名人の顔の類似を発見するロレックスという名コーナーがありましたが、僕の本はほぼロレックスの原理だけで書かれてますよ(笑)。今日お持ちしたバルトルシャイティスやカイヨワの本は、カマキリの擬態とか、石の模様がなんかの絵に見えるとか、風景のなかに人の顔が見えるとか、そういうアナロジー現象ばかり研究してるんですね。ネスカフェ ゴールドブレンドのCMのように「違い」が分かることが現代では知性であり教養になってますが、「似てる」ってことで森羅万象を繋いでいく思考パターンのほうが昔は当たり前だったんです。高山宏先生が訳したバーバラ・スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー』の帯にある、「「ちがう」という時代に「おなじ」をさぐる」ですね。これを僕は魔術と呼びたい。マニエリスムは切って貼っての世界で、コラージュと言ってもいいんですけれど、ハサミの世界と同時に糊(ノリ)の世界なんですよ。その糊=愛をどれぐらい入れるかが問題で、ちょっと糊が多くてベタつき過ぎかなと悩んだところもありました。その塩梅で魔術になるかならないか、菊地さんの言葉でいうと、粋になるかならないかが決まってくると思うので。
 
菊地:僕はすごく粋で上品な本だと思いますよ。というのも、後藤さんにはまだ埋蔵している知識が山ほどあって、その中からちゃんと選んだ上で方向付けができているから。ややもすると、こういう本は章立てやら連載の形態やらで、水平の一貫性が失われる可能性がすごくあるんですよね。でもこの本はきっちり話が流れていくし、しかもブードゥーやブルースからヒップホップまで話を繋いでいる。ヒップホップがどこまで遡れるかというのは、多くの研究者がやろうとしているけれど、エモいんだよね(笑)。その、エモさの質、みたいなのが、結局、音楽が与える心的効果によるものだから、せっかく研究してても、研究になんない。みたいな結末の本はいっぱいある。野田さんの「ブラック・マシン・ミュージック」とか。それを後藤さんは乗り越えてますよね。体動かさないから(笑)。

黒人たちは明らかに小ささからスタートしている

後藤:僕の知り合いの目利きマニエリストたちは、2章の「「鳥獣戯画」ブルース」で椅子について言及した箇所を誉めてくれました。「君の本で唯一良かったのは椅子のページだったよ」と。そこだけなんだ(笑)。僕自身、書いている最中に「そういえばブルースマンは座っているよな~、これはすごく重要なアイテムなんじゃないか~」と手応えを感じていたところでした。これは本には書かなかったけれど、ブラックパンサー党の創始者のヒューイ・P・ニュートンはピーコックチェアをすごく愛していたんです。映画の『ブラックパンサー』でも、主人公はピーコックチェア状の椅子に座っていて、やはりそこには権威の象徴としての意味合いがある。そこで調べてみると、アウトキャストのビッグ・ボーイもピーコックチェアに座っているとか、松崎しげるも『マイ・ラブ』のジャケでピーコックチェアに座ってるとか(笑)、椅子はブラック・カルチャーの重要な細部だと分かりました。マニエリスムは中心からどんどん逸れていくのですが、そのディテールから最終的に核心に辿り着くのがクールなんです。その意味で、椅子に着目したのは良かったのかなと。
 
菊地:本当にそう思いますよ。もともとブルースでは座って演奏していたのが、「リズム&ブルースでは立って演奏するようになった」とかじゃなくて、椅子そのものというごく小さな要素に着目したのがすごい。誰もこんなことは考えなかったんじゃないかな。みんな何も考えずに立ったり座ったりしてるけど(笑)。
 
後藤:ありふれた現代思想の話で恐縮なんですが、エドマンド・バークが打ち立て、カントが『判断力批判』で完成させた崇高美という概念があります。これはつまり、バカでかいものを目の前にしたときに思考が停止しちゃって、類比ができないくらいの圧倒的な啓示を受けてしまうという快楽で、小ささや滑らかさという従来型の美がもたらす心地よさとは違うんです。ナチスが人々を扇動するのに使った道具でもあり、20世紀の文化・思想全般に流れているんですけど、とにかくバカデカさで拒絶し畏怖させるという崇高美学が近現代そのものを作った。でも、それは自分との類比が不可能なので、愛で繋がることは無いんですよ。だから、僕は小さいものに着目して類似を見つけようと思ったんです。ブラックパワーが叫ばれた時代に「ブラック・コズモ・ウィークネス」を唱えた天邪鬼サン・ラー、そして松岡正剛さんの言う「フラジャイル(こわれもの)」の精神です。アフロ・アメリカンたちは明らかに小ささ・弱さの極からスタートしているので、僕もどこか自分を重ね合わせることができたし、マニエリスムとして語れるモチーフが大量にありました。
 
菊地:20世紀後半からは、20世紀が持っていた強度に対する疲弊を表明して、静かに行きましょうとか、汚さないようにしましょうという風潮になっていったけれど、そういうエコロジー的な発想自体が結局のところは強度と結びついていて、両者にはさほど差がないと思っている。本当に20世紀的な強度とは異なるやり方をしようと思ったら、強度ぐらい強度のある「弱度」を見つけないといけない。僕は、「履歴」を堆積させるのではなく、間引いてゆく事を20年ぐらい提唱していますが、後藤さんみたいに小さいものや斜めから切るようなものに行くのが良いんだけれど、そういうのは面倒くさいから、今人はとにかく簡単ですぐできるものに行きがちなんですよね。カルチュラル・スタディーズ的な倫理で『黒人音楽史』と銘打つ本を書こうとすると、間違えてはいけないし、変に何かを繋げては行けないし、面白半分でやっちゃいけないしと、雁字搦めになって書けなくなってしまう。そうすると「俺はここからここまで書く」と分断して専門化が進むわけだけど、後藤さんはアフロアメリカンの「弱度」を我が事のように「獲得」する事で、一見エゲツなくブリンブリンで、幻想文学の継承みたいにも見えつつも、ちゃんと骨のある『黒人音楽史』を書ききることができた。全体に「実は全部嘘なんだよ」という、恐るべき寒気(スリル)が漲っているのも素晴らしい。黒人は白人と違う意味で、すげえ嘘をつくので。それすら黒人音楽の本を書く人は敬意の余り触れなかった。最近の研究本は、ユーモアすら失いかけている。この本は、新しい正史として捉えられていくんじゃないかな。

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