第168回芥川賞はどの作品が受賞してもおかしくない力作揃い 候補5作品を徹底解説

 2023年1月19日(木)に第168回芥川賞が発表される。候補作は以下の5作品(50音順)。

・安堂ホセ(あんどう ほせ)『ジャクソンひとり』(『文藝』冬季号)
・井戸川射子(いどがわ いこ)『この世の喜びよ』(『群像』7月号)
・グレゴリー・ケズナジャット『開墾地』(『群像』11月号)
・佐藤厚志(さとう あつし)『荒地の家族』(『新潮』12月号)
・鈴木涼美(すずき すずみ)『グレイスレス』(『文學界』11月号)

 鈴木氏以外は、今回が初の候補作入りとなる。以下、各作品を紹介していく。

佐藤厚志『荒地の家族』

 何度も立ち止まって死者を思い、自分に何ができて何ができなかったかを考えてやりきれなくなる。人を思い出す時、ひと続きの記憶が現れるわけではない。その時に味わった感情、手触り、痛み、苦しさが点々として残りかすのようにあるだけだった。

佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社)

 新潮新人賞の受賞作『蛇沼』(2017年)、そして前作『象の皮膚』(2021年)など、堅実な作品を発表してきた著者が芥川賞に初ノミネート。

 茨城県で植木職人として生きる坂井裕治は40歳になった。10年前、あの震災(「災厄」)は、一人親方として船出したばかりの裕治の仕事道具を波に攫った。それから2年後、ひとり息子の啓太を残し、妻の晴美は病死してしまった。再婚相手の知加子とも、流産をきっかけに離別したきりになっている。20歳の頃、ある出来事をきっかけに疎遠になった同級生の明夫も、現在では体を悪くしているらしい。植木仕事をしても、自らの衰えを感じる。過去を悔いながらも、どうしようもない裕治の寂寥感が作品全体を覆う。そうした寂寥感の只中にいる主人公を置きながら、本作は結末を安易なハッピーエンドに回収しない。ある思いを心中に抱えながら明夫が裕治にいう「お前でもうまくいかねえのか」という言葉は重い。

 これ見よがしには行われないものの、本作の特徴として、少しずつ言葉を変えながらも、同じ場面・光景について何度か言及される点がある。それは震災が奪った風景や、妻・晴美との死別、そして自分の元を去った知加子と生まれなかった子供についての記憶なのだが、無論、いずれも主人公の裕治が脳内で繰り返し想起し、距離を計り直し続けられた出来事であるだろう。読者は同じ出来事を反芻しながら読み、裕治の苦い思いを追体験させられる。主人公の「植木」職人という、時間性と無縁でない職業からも想起されるとおり「時間」の経過が、本作のテーマのひとつだ。近年発表されているいくつかの「震災小説」がそうであるように、本作もまた、10年という時を経なければ書かれなかった作品である。

井戸川射子『この世の喜びよ』

 世間からの扱いをそう、差し引いたって、生理、生む時に出てくるの、母乳、産後の悪露、おりもの、女の体は痛みと出ていく水が多すぎるよね、水と言うには濁ってるか、というようなことをあなたは答えた。

井戸川射子『この世の喜びよ』(講談社)

 詩人として『する、されるユートピア』(2019年)で中原中也賞を受けている著者であり、初の小説集『ここはとても速い川』(2021年)以降、小説家としても継続的に活動している。

 ショッピングセンターで喪服を販売している「あなた」(「穂賀さん」)は、フードコートでいつも姿を目にしていた15歳の少女と話したことをきっかけに、家庭での悩みを打ち明けられるようになる。店舗向かいにあるゲームセンターの常連客からは「要領悪い」と言われもする「あなた」は「風景ならいつまでも覚えておける」にも関わらず、自らの過去についての記憶はどこかおぼろげ、というどこか不思議な人物である。それが理由か、「あなた」もまた、二人いる娘とはいまひとつ良好な関係を築けていないらしい。その意味で本作はひとまず、「あなた」と少女の疑似母娘を通じた、母娘関係のやり直しを描くものと言える。

 作中人物を「あなた」と呼ぶ特徴的な人称の取りかたに、かつてのヌーヴォー・ロマン的な実験小説の趣きを見ることも可能だろう。だが、本作において印象に残るのはそうした実験性よりもむしろ、「穂賀さん」と呼ばれる女性に二人称で「あなた」と呼びかける語り手の親しげで、どこか温かな目線である。

 作品を読み進めるうちに、本作が「記憶」と「コミュニケーション」という普遍的なテーマをめぐる作品でもあることが次第にわかっていく。たとえば、作品冒頭で少女に投げかけられた「あのね、穂賀さん忘れないでよ。記憶力ないと会話もできないよ」という言葉に対し、結末に至って「あなた」は「あなたと話したいから思い出したの」と少女に向けてようやく応答する。そして言うまでもなく、「あなた」と話すために思い出す、というのは、「小説」そのものの本質であるだろう。そう思い至ってようやく「この世の喜びよ」と叫ばれる本作の着地は鮮やかだ。

グレゴリー・ケズナジャット『開墾地』

 生まれ育ったこの町に戻り、この十年間ともに生きてきた日本語を手放して、これから母語のなかに生きていくこともできるだろう。しかし〔……〕他の言語を身につけた以上、忘れることはない。そもそも忘れたいと思わない。英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった。

グレゴリー・ケズナジャット『開墾地』(講談社)

 アメリカで生まれた著者は2007年に来日し、同志社大学で谷崎潤一郎を研究していたという。『鴨川ランナー』(2021年)で小説家としてデビューする。

 日本の大学院に留学し、日本文学を研究するラッセルが、イランにルーツを持つ育ての父が住む、サウスカロライナの実家に帰省することから物語は始まる。母はラッセルがまだ幼い頃に家を出てしまった。アメリカを選びながら、家では母語であるペルシャ語の音楽を聴き続けている父の考えていることはいまひとつ掴めない。ささやかに書き込まれる、アメリカとイランという国家間の情勢をめぐる現実も痛切である。ラッセルのほうも、予定されている博士論文提出後の身の振り方は決まらず、先行きは不安である。

 十年前、英語に居心地の悪さを感じるラッセルは、父にとっての「アメリカ」に代わる「外」として「日本」に向かった。彼が希望を見出したのは、複数の言語にわたることで生まれる、辛うじての「隙間」であった。本作において【父/母】、【イラン/アメリカ】、【アメリカ/日本】、【ペルシャ語/英語】、【英語/日本語】などのあわいに、ラッセルは揺れている。

 それと対照的に描かれるのが、彼らの実家を取り巻き繁殖する「葛」だろう。父の駆除作業という名の格闘も虚しく、やがては実家をも飲み込みかねない繁殖力を持つそれは、南部の近代化に伴い、十九世紀に日本から移植されたものであるという。新天地に文字通り根を張り、繁茂することを選んだ葛は「一年も経てば、家そのものも呑み込んでしまう」。それでもこのささやかな「隙間」をとりあえずいまは守ろうと、ラッセルは葛を焼く。本作の結末にして、最も印象的な場面であるだろう。

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