後藤護の「マンガとゴシック」第6回
「マンガとゴシック」:怪奇マンガの帝王、古賀新一の魅力再考——澁澤龍彥が『エコエコアザラク』に与えた影響
古賀マンガの魅力——見世物小屋のハッタリ美学
『エコエコアザラク』の魅力について、もうすこし踏み込んで考察してみたい。7巻を覗いてみると、読み切り連載で重要なのは「ストーリーよりもアイディア」であると書かれていて、このあたりに古賀美学の秘密が隠されている気がする。ここで言う「アイディア」とは、見世物小屋的な「ハッタリ」と言い換えてよいかもしれない。すると米澤の以下の古賀評は、とてもすんなり入ってくるだろう。
「古賀新一の怪奇物の場合、じっくりジワーッとではなく、次々と起こる出来事、場面転換によって、恐怖が展開していく。見世物的興味の連続といってもよい。それが心理的な不気味さではなく、奇形的なグロテスクさと猟奇的な興味を駆りたてるのだ。」(『戦後怪奇マンガ史』148ページ)
つまり楳図かずおの描く得体のしれない、不可解で不条理な、心理的な「恐怖」とは違って、古賀新一の「怪奇」はアイディアやハッタリ重視の、グロテスクで肉体的で即物的なものである(「恐怖 terror」と「怪奇 horror」の区別に関しては本連載の第一回を参照のこと)。分り易すぎる、と言うと聞こえが悪いが、そのキッチュ感が古賀の魅力でもある。本作の続編で、ミサの高校生時代を描いた『魔女黒井ミサ』や『エコエコアザラクⅡ』になると荒唐無稽ぶりがエスカレートしていき、ミサの得意技「顔面くしゃくしゃ人間」や、拷問器具だらけのビューティー・サロン「黒ミサ」のインテリアといった、ウルトラ・キッチュ表現に至るのだ【図3】。
アナロジーと魔術
とはいえ、古賀のアイディアが場当たり的なキッチュでは終わらず、余韻を残す綺想にまで高まったケースも多数あって、例えば12巻所収の「海底の舞踏会」がそれである。凄まじい豪雨が降りしきるなか、ミサは転校先のバレエ学校へとタクシーで向かう…この導入を聞いただけで、ホラー映画ファンならダリオ・アルジェントの『サスペリア』冒頭が下敷きとピンとくるだろう(黒井ミサが映画館で『オーメン』や『マニトウ』を観るシーンもあり、連載当時のホラー映画に直接影響を受けていたことが分かる)。
驚くべきは、その学校のイケメンバレエ教師の谷中が、大量の水槽に魚を飼って「これはすばらしい踊りだ…」といって見惚れている荒俣宏と見紛う(?)エキセントリック男であるという設定だ。しかし、この異様な魚好きには秘密があった。一年前の夏、スキューバ・ダイビングの最中に女の水死体を見つけた谷中は、海流に揺られているその死体がもっとも美しいバレエを踊っていると感じてしまう。その事件から、彼は豹変する。
谷中に目を付けられた学生はすべて行方不明になっていることを、他の生徒たちからミサは聞く。不可解に思っていると、ある晩アクアラングをつけて海に潜っていく谷中をミサは発見する。尾行すると、行き着いた海底洞窟には行方不明になったバレエ学校の女生徒が大量に海流のなかでたゆたっていて、死んでなお「バレエ」を踊り続けていた…。
水死体の動きに、舞踏の最良の動きを発見するという古賀独自のアナロジーは、恐怖であると同時にメルヒェン的といってよい残酷でファンシーな想像力が認められる。絞首刑に処された死刑囚が、床が抜けた瞬間にもがく身ぶり手ぶりに、踊りの基本的な七系がすべて含まれている、というダンサー勅使河原三郎の残酷な洞察を妙に思い起こさせもする(『機関精神史 創刊号』高山宏インタヴュー、34ページ参照)。中世の「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」が象徴するように、死と舞踏には我々のあずかり知らない深い繋がりが隠されているのかもしれない。
『エコエコアザラク』に出てくる、呪いの人形にせよ動物観相学にせよ、魔術の究極的な原理は「繋がるはずのないものを繋げる」というアナロジーである。その意味で、水死体の動きとバレエの動きに繋がりを発見した「海底の舞踏会」には、書物から単に受け売りしただけの黒魔術とは一味違った、古賀独自の魔術(アナロジー)の香りが立ち込めている。