泡の中、泡の外ーーカズオ・イシグロ『クララとお日さま』評
小説そのもののアレゴリーとしてのクローン
それにしても、本作の世界像はあいまいで抽象的である。作品の時空間は「いつ」「どこ」なのかはっきりしないし、遺伝子操作の内実もよくわからない。それはクララにとって観測可能なものだけが、読者に与えられるからである。世界の不穏さや残酷さは、表立って語られるのではなく、クララの視界にちらつく微細な「サイン」として読者に与えられる。語り手の理解している世界と世界そのもののあいだに広がる不気味なギャップーーそれは『浮世の画家』や『日の名残り』から一貫するイシグロの主要なモチーフである。
そのギャップを際立たせるのに、イシグロは主観的な語りをできるだけ首尾一貫したものに仕上げてきた。本作も含めて、イシグロの長編小説の文体はよどみがなく、つっかえたり、慌てたり、取り乱したりするそぶりはほとんど見せない。語り手の長大なモノローグを阻害するようなダイアローグは発生しない。いかなる異常事態が起ころうとも、語りのペースとトーンは維持される。特に、アンドロイドであるクララの冷静な主観(主体)は、遺棄された後も無傷のまま保たれる。なめらかな肌理を備えたイシグロの文体は、まるでクローンのような人工性を帯びている(※)。
ケアラー(介護人)やドナー(提供者)と呼ばれるクローンたちを主役とした『わたしを離さないで』をはじめ、イシグロにはもともとクローン的存在への強い関心がある。ただ、考えてみれば、そもそも語りそのものが、語り手のクローンを作成するようなものではないか。読者が知るのは、スティーヴンスその人ではなくそのクローン、クララその人ではなくそのクローンである。より正確には「スティーヴンスその人」や「クララその人」はどこにもいない。小説の登場人物とはオリジナルのいないクローン、親のいない子どもに等しい。イシグロがクローンや孤児のモチーフを反復するのは、それらが小説そのもののアレゴリーだからである。
いずれにせよ、イシグロにとって、語りは文学的技法という以上に、人間存在の根幹にある行為である。『日の名残り』のいわゆる「信頼できない語り手」スティーヴンスーー結果的にナチスの協力者となった主人ダーリントンに服従し、戦後はアメリカ人に仕えているーーは、自らの誇りを守るために、その失敗した過去を修正する。逆に、クララは徹底して誠実かつ良心的だからこそ、人間以上に人間的なケアラーがホモ・サケルとして遺棄される残酷な世界にも服従する。この極端な語り手たちは、その語りの生み出す《泡の中》に読者をいざなっている。それにどう応えるかが、読者に与えられた問いである。
(※)スラヴォイ・ジジェクによれば、主体(subject)の基本的な身振りが「服従」(subjection)であるのに対して、客体(object)は「異論」(objection)に結びつく。ゆえに、一般的な通念とは逆に、異議を唱える客体が服従する主体をくすぐって、運動を引き起こすのである(『パララックス・ヴュー』)。このジジェクの見解を当てはめるならば、スティーヴンスにせよクララにせよ、まさに「客体を欠いた主体」として構成されている。クローン的な語りとは、主体をくすぐる客体をもたない語りなのだ(日本で言えば、村田沙耶香の『コンビニ人間』がそれに近いだろう)。
なお、イシグロ研究者のヴォイチェフ・ドゥロンクは「小野〔『浮世の画家』の語り手〕とスティーヴンスの語りは治療という重要な目的を示しており、したがって談話療法という精神分析的観点から見ることができる」と述べている(『カズオ・イシグロ 失われたものへの再訪』)。しかし、イシグロの小説は、医者と患者のダイアローグをもたないという点で「談話療法」とは質的に異なるのではないか。少なくとも私は、特定のプログラムに基づいたモノローグに徹したところに、イシグロのユニークさを認めるべきだと思う。