泡の中、泡の外ーーカズオ・イシグロ『クララとお日さま』評
泡の世界は、残酷なまでに一方通行
このように、『クララとお日さま』は嫌味な小説である。子どもたちのほほえましいやりとり、ジョジーに対するクララの無私の献身、そのすべてが《泡の中》のやさしさにすぎないのだから。彼女たちの関係が細密かつ繊細に描かれるほど、《泡の中》の残酷さと《泡の外》の空白がそのネガとして浮かび上がってくる。
クララはスクラップ置き場で、かつての店主に「特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました」と告げる。人格ではなく関係にこそかけがえのない(=エミュレートできない)固有性が宿るという、この一見して美しいメッセージは、当然アイロニーである。社会的な関係を奪いとられたクララが、ジョジーにとって「特別な何か」でなかったのは明白なのだから。関係から排除されたクララが、純真そのものと言うべき口調で関係のかけがえのなさを語るーーこのイシグロの嫌味に気づかなければ、本書を読んだことにはならない。
むろん、遺棄されたクララに新たな余生の可能性が開けていれば、多少救いはあるかもしれない。しかし、イシグロはスクラップ置き場に何の恩寵も与えなかった。それが結末の後味の悪さを増幅させている。
思えば、現代のアートや映画は「夢のゴミ」をさまざまなやり方で取り上げてきた。例えば、ボリス・グロイスの盟友イリヤ・カバコフには、共産主義時代のプロジェクトを展示したインスタレーションがある。それはユートピアの瓦礫を集めた「星座」と呼ぶにふさわしい。「社会主義は素晴らしいものですが、ヨファンやマヤコフスキーのユートピアの中だけのものであるべきで、決して実現させてはならない、「実行に移し」てはならないのです。社会主義は、離れたところにある限り素晴らしい」(沼野充義編『イリヤ・カバコフの芸術』参照)というカバコフのアイロニックな発言も、ここで思い出しておこう。
あるいは、宮台真司がリアルサウンドでの一連の啓蒙的な映画評のなかで「砕け散った瓦礫に一瞬浮かぶ星座」というベンヤミンの概念をたびたび参照するときにも、瓦礫やゴミこそが最もアーティスティックなオブジェクトになり得るという20世紀的な逆説が引き継がれている。シンボリックな全体性を夢見るユートピアの幻想があったからこそ、そのスクラップから成るアレゴリーの強度も保証された。食材が豊かであれば、たとえ料理は大失敗したとしても、そのゴミ箱はゴージャスなものになり得るだろう……。
ただ、ほとんどの人間が世界革命やユートピアを夢見なくなったとき、アレゴリカルな星座はいかに出現するだろうか。夢が萎めば、夢の瓦礫もみみっちいものになる。イシグロの描くスクラップ置き場は、パソコンのデスクトップのゴミ箱のように無機的な空白地であり、いかなる「瓦礫の星座」も描けそうにない。ポイ捨てされた機械たちは、一致団結して抗議し叛乱を起こすわけでもなく、ただバラバラに散らばって太陽に照らされるばかりだ。
してみると、本作が《泡の外》のスクラップ置き場で終わることに衝撃を受けるだけでは、読み手としてちょっとウブだろう。より重要なのは、この破局的な光景を描き出す、イシグロのそっけなく平坦な叙述のほうである。この忘れられた空白地から見渡せば、まさにタイトル通り「クララとお日さま」以外の人間はほとんど絶滅したも同然であり、ジョジーもリックもただクララの追憶のなかに存在するだけである。
もとより、現代人が《泡の中》から弾き出されるきっかけには事欠かない(失業、貧困、病、不祥事……)。たとえ束の間の成功を収めたとしても、不幸や過失があるとあっけなく《泡の外》へと疎外される。泡は脆いが、一度その外に出てホームレスーー精神的なホームレスも含むーーになってしまうと復帰は難しい。泡の世界は、残酷なまでに一方通行である。近年の日本では無差別殺傷事件が頻繁に起こるが、その背景にあるのは《泡の外》へと嘔吐された個人が《泡の中》に向ける怨恨であり復讐心である。
しかし、どれだけ派手な犯罪をやったところで《泡の外》が理解されることはほとんどない。自分とそのサークルの話題で忙しい《泡の中》の人間は、サークルの外の不幸にはたいてい無関心・無感動である。かといって、存在を忘れられた《泡の外》の人間たちが、組織的なテロリスト集団のように連帯することもない。剥き出しのスクラップ置き場にぽつんとたたずんで、それぞれがそれぞれの過去を思い返すーーその孤独な想起が一方的・妄想的な憎悪に変わるか、それともクララのような運命の受容へと落ち着くか。それは紙一重なのである。