書物という名のウイルス

インターネットはアートをどう変えるのか?――ボリス・グロイス『流れの中で』評

20世紀最大の実験国家であったソ連

 ともあれ、ボリス・グロイスの関心は《有限の物質の生み出す無限のフロー》という唯物論的な全体性において、アートひいては人間の生がいかに再編されるかに向けられる。その意味で、グロイスの立場は普遍主義的である。彼がSNS以上にグーグルさらにはウィキリークスに関心を寄せるのも、そのためである。

われわれの時代には、特定のアイデンティティや利害の名の下に抗議し、抵抗することに慣れるようになった。自由主義や共産主義のような普遍的なプロジェクトの名の下での抵抗は過去のものであるように思われる。しかしウィキリークスの活動は特定のアイデンティティもしくは利害のためではない。むしろ彼らは、情報の自由な流れを保証するという一般的で普遍的な目標を持っている。こうしてウィキリークスという現象は、普遍主義の政治への再導入を示している。(193頁)

 周知のように、今はSNSを舞台としたアイデンティティ・ポリティクスが全盛を迎えている。これはまさに「特定のアイデンティティや利害」を起点として、偏見や不平等を解消しようとする動きである。逆に、ウィキリークスにおいては普遍主義が再来している。国家に情報の流通の自由を奪わせないというウィキリークスの簡潔明瞭なプログラムは、特定のアイデンティティとは無関連に作動する。「彼らは中立的で匿名の主体であって〔…〕現代生活のインフラを広めるインフラ主体なのである」(196頁)。

 とはいえ、グロイスが鋭く指摘するように、ウィキリークスの普遍主義的な企ては、国家を出し抜く「陰謀」のように実行されざるを得ない。そのため、アイデンティティ・ポリティクスが今や市民運動の晴れやかな中心になっているのに対して、ウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジは、国家を害する犯罪者として嫌悪されている。アイデンティティをベースとした語り口が共感を集める反面、自己のアイデンティティをゼロにして、普遍的なインフラを構築しようとする企ては、人目をはばかるような後ろ暗い境遇へと追い込まれる――、これは確かにきわめて興味深い対比だろう。

 この「陰謀としての普遍主義」に対する関心は、「東側」に生きたグロイスならではのものである。彼は最近では『ケアの哲学』や『コレクションの論理』のような人目を惹くテーマにも取り組んでいるが、もともとはソ連のスターリン時代のアートや文化に斬新な解釈を施して、一躍名を馳せた批評家である。アートについて語るとき、グロイスの批評には、共産主義という普遍主義の実験がたえず反響している。

 そもそも、人間に関わるものごとをトータルに変革しようとしたソ連は、まさに20世紀最大の実験国家であった。共産主義革命はロシア一国にとどまらず、地球全体に「新しい人間」の到来を告げる曙光となる――この壮大な野心に貫かれた世界革命のプロジェクトは、ゼロから立ち上げられた未知の芸術作品のような様相を呈した。グロイスによれば「ソヴィエト連邦全体がある種のインスタレーションとして形成されたということができる」(111頁)。歴史的・風土的なアイデンティティを消去して、政治的な綱領だけを冠した国家規模のインスタレーション――われわれがこのような「奇観」を目にすることは、恐らく今後ないだろう。

 普遍主義的な立場から、すなわちアイデンティティ・ゼロの「誰でもない存在」の立場から、人類史に決定的なジャンプをもたらそうとしたロシア革命は、前衛芸術とも親和性の高いものであった。マレーヴィチにせよ、ウラジーミル・タトリンにせよ、自分たちの推し進めた芸術革命こそが、1917年のロシア革命の予告編になったと自負していた(※3)。まるでアヴァンギャルド芸術の実験のようであったソ連というプロジェクトは、しかし結局は頓挫する。この壮大なユートピア的実験の廃墟で《普遍主義の亡霊》とどう向き合うか――、グロイスの理論はこの難題に導かれてきた。

(※3)興味深いことに、マレーヴィチはウクライナ(当時はロシア帝国)のキエフ近郊出身であり、タトリンはハリコフで幼少期を過ごした。さらに、グロイスの盟友で、本書でも論じられる現代アーティストのイリヤ&エミリア・カバコフも、ウクライナのドニプロ出身である。ウクライナにゆかりのある作家たちが、ロシアの芸術的実験の中心にいたことは改めて想起されてよいだろう。この点については、拙稿「プーチンのロシア、習近平の中国、そして戦前日本の「意外な共通点」と「相違点」」でも言及した。

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