元駐ウクライナ大使が伝える、複雑で懐の深い歴史とは? 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』を読む

 無知でいるより、付け焼き刃でも知識があった方がよっぽどいい。ロシアのウクライナ侵攻を契機に両国に関する書籍が注目を浴びる中、8万部増刷されたという2002年刊行の本書『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』を読むと、そう痛感させられる。

 著者の黒川祐次は外務省入省後、1996年から駐ウクライナ大使を務めた経歴を持つ。本書ではウクライナの歴史を通じて、ヨーロッパ有数の広い国土を持つ大国の成り立ちと実像を紹介していく。

 インド・ヨーロッパ語系の民族・キンメリア人(紀元前1500年~前700年頃)を皮切りに、イラン系のスキタイ人(紀元前7世紀〜前2世紀)、中央アジアから移動してきたサルマタイ人(前2世紀〜3世紀)、ゴート族(3世紀半ば〜4世紀末)、フン族(4世紀後半〜6世紀半ば)、アヴァール族(6世紀半ば)、ブルガール族(6世紀末〜7世紀半ば)、ハザール可汗国(7世紀半ば〜11世紀後半に滅亡)と、ウクライナにはさまざまな民族が住んできた。

 9世紀になるとロシアやウクライナの母体となる国、キエフ・ルーシ公国が誕生する。ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の先祖となる東スラヴ人が建国したこの国は、首都を現在のウクライナと同じキエフ(ウクライナ語で「キーウ」)に置く。ギリシア正教を国教化し、国内外で求心力を高めて勢力を伸ばすが、1240年モンゴルの侵攻によって終焉を迎える。後を継いだハーリチ・ヴォルイニ公国がウクライナの地を治めるも、1340年代にリトアニアとポーランドに併合されて消滅。以降20世紀まで、独立国家は現れなかった。

 著者はそんなウクライナについて、実際に暮らしてみて「複雑で非常に懐の深い大国である」と評している。その複雑さを象徴するのが、言葉をめぐる問題だ。

 例えばウクライナという国名。18世紀後半からウクライナの大部分を支配したロシア側の史観では、「辺境地帯」が語源となる。一方で、元々12〜13世紀に「土地」または「国」を意味する普通名詞に過ぎなかったという説がウクライナではある。16世紀になると特定の土地を指すようになり、祖国としての意味合いも生じる。ところがロシア帝国の支配下に置かれると、「小ロシア」に名称が変わる。他にも、19世紀にロシア語の方言という位置付けを脱却し近代化したウクライナ語の使用の制限など、国だけでなく言葉の独立性も揺さぶられてきた歴史があるのだ。

 戦争の影響で小麦値上がりの懸念というニュースも先日出ていたが、ウクライナは「ヨーロッパのパン籠」と呼ばれるほどの穀物大国である。穀物を切り口に歴史を追っていくと今度は、穀物だけではない多様な魅力を持つ、この国の懐の深さが見えてくる。

 穀物を運ぶには、交通網の整備が欠かせない。ロシア帝国下で19世紀後半に輸送のための鉄道建設が始まり、石炭と鉄の宝庫でもあったウクライナは急速に重工業が成長する。輸出の重要な拠点となったのは、黒海沿岸の港町オデッサだ。ここに西欧・東欧の諸民族が集まり、自由闊達な空気を持つ国際都市へと発展していく。ロシア・東欧のユダヤ人世界の中心でもあったオデッサからは、ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフや短篇作家イサーク・バーベリなど優れたユダヤ人芸術家が生まれる。

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