萩尾望都が恩田陸の吸血鬼小説『愚かな薔薇』を絶賛する理由とは? 『ポーの一族』との比較から考察
その萩尾望都も一方で、1972年から始めた『ポーの一族』のシリーズを、2016年に40年ぶりに再開させて以降、断続的に新しいエピソードを描き続け、美しくもおぞましい吸血鬼の世界に触れさせてくれる。
最新エピソードとして全2巻で刊行された『ポーの一族 秘密の花園』(小学館)はとりわけ、他人の血(エナジー)を喰らって生きる吸血鬼という存在の恐ろしさとおぞましさであったり、長く生き続ける吸血鬼だからこそ覚える複雑な感情だったりといったものが漂ってくる作品だ。1888年のイングランド。バンパネラへと変わったアランと共に旅をしていた途中、レスターという地でアランが体調を崩したため、エドガーは近くにあったアーサー・トマス・クエントン卿の館に助けを求め、そのまま滞在することになる。
再開までの最終作となった「エディス」や、再開後に描かれ2015年が舞台となった『ポーの一族 ユニコーン』に登場するクエントン卿は、この時はまだ人間で30才を過ぎても結婚をせず、館に使用人たちと暮らしていた。そこに現れたエドガーを見て、クエントン卿はランプトンという子供の頃の友人を思い出す。
画家でもあったクエントン卿が、滞在し始めたエドガーをモデルに描いた絵が後に、1975年発表の「ランプトンは語る」に登場して、散発的に描かれてきた『ポーの一族』の関連作品を1本の歴史の上に乗せて一種のサーガにした。その鍵となる絵が生まれた経緯も興味深いが、物語の方はクエントン卿と幼なじみのパトリシアという女性をめぐる、すれ違いの恋といったシチュエーションが語られて、好き合っていても結ばれない状況のもどかしさで読む人を振り回す。タイミングは逃すな。気持ちは隠すな。そんなメッセージも受け取れそうだ。
一方で、館に滞在するエドガーは、体調不良で眠り続けるアランを見守りながら幾つかの吸血行為に手を染め、人の命を奪っていく。人外の存在としての恐怖と、永遠に生き続けることへの憧憬を与えてくれる吸血鬼を身近において、クエントン卿は何を思ったのか。その答えが、「エディス」や「ユニコーン」などに登場して、100年以上もエドガーを見守り続ける姿なのだろう。
『愚かな薔薇』のように希望の存在としての吸血鬼にならなりたいか。罪を犯し後悔を背負いながら永遠の時を生き続ける吸血鬼に憧れるか。タイプの違う2つの物語を読んで自分の答えを見つけてみてはどうだろう。