松田青子が語る、世界幻想文学大賞受賞の背景 「英米では小説のもつ批評性を認めてもらった」

 今年11月、短編集の英訳版『おばちゃんたちのいるところ――Where The Wild Ladies Are』が世界幻想文学大賞・短編集部門を受賞した松田青子。同賞は、ヒューゴー賞・ネビュラ賞に並ぶ、スペキュレイティブ・フィクション(SF)、ファンタジー作品の三大賞と言われており、日本では2006年に『海辺のカフカ』で村上春樹が長編部門、2019年に宮崎駿が生涯功労賞を受賞している。

 日本の古典をモチーフにした作品がこんなにも英語圏をはじめとする世界で読まれ、評価されているはどうしてだろうか。女性たちとの幸せなつながりで生まれ、読まれているというこの作品について松田青子に語ってもらった。(聞き手:松尾亜紀子 まとめ:竹花帯子)

『おばちゃんたちのいるところ』が生まれたところ


――世界幻想文学大賞・短編集部受賞、おめでとうございます。英語圏では新人ともいえる松田さんの作品が受賞したことは本当に嬉しい驚きでした。『おばちゃんたちのいるところ――Where The Wild Ladies Are』はもともと「アンデル 小さな文芸誌」という雑誌で連載していた連作短編ですよね?

松田青子(以下、松田):はい、「アンデル」は2015年1月号から4年間、中央公論新社から発行されていた「小さな文芸誌」で、今はもうなくなってしまいました。「アンデル」で連載しませんかと依頼があった頃、私は文芸誌に作品を「発表」することに違和感を覚えていました。日本の純文学の世界では、新人作家はまずは文芸誌で中編を書くように編集者に言われ、芥川賞のような大きな賞を目指していくという流れがあります。この文芸誌に書いたら次の出版社の文芸誌という順番と、賞の選考対象になる作品の枚数が、セットである意味ルールのようになっている。全員ではもちろんないですが、文芸誌の編集者さんたちがそれを当たり前のように思っていて、短編は「ノーカウント」だと言われたこともあります。そういうやりとりを繰り返しているうちに調子が悪くなって。私は賞のために書いているのではないし、文芸誌に作品を書くと「発表」になるのも嫌でした。でも「アンデル」でなら「発表」にならないなと思ったんです。新しい媒体で既存の枠組みから離れていたし、編集者はふたりとも女性でノリも柔らかく、気が楽でした。一般的な文芸誌ではまず新人と呼ばれる人間が連載をさせてもらうことが難しいでしょうし、連載する際の枚数(文字数)がきっちり決まっていることが多いですが、「アンデル」では私の好きにしていいと言われていたので、『おばちゃんたちのいるところ』も、今回は10枚、次は30枚とか、毎回作品に合わせた長さにすることが可能でした。枚数から自由に遊べたことは自分の中で大きかったと思います。

――2013年に最初の単行本『スタッキング可能』が出て、それも三島由紀夫賞、野間文芸新人賞の候補になるなど、松田さんの作品は国内でもとても評価されました。だから松田さんも文芸誌に50枚、100枚のものを順番に発表していた可能性もあったと思いますが、既存のシステムに抵抗したんですね。

松田:抵抗、というほど強くはなかったけど、その流れにのる気持ちの強さもないし、ああいう人間関係や雰囲気も無理だし、「発表」したくないという謎の意識で(笑)。既存の枠外で続けられたということが精神的によかったんだと思います。

――単行本に収録された作品の順番と、連載の順番は同じですか?

松田:はい、日本版はそうです。最初に書いたのは「みがきをかける」です。これは「アンデル」の連載が決まる前に、イギリスの文芸誌「GRANTA」のウェブに短編を掲載する企画があり、英訳される前提で書いた作品なんです。その際、辛島デヴィッドさんがポリー・バートンさんの翻訳が私に合うと思うと言って、ポリーさんに依頼してくれました。翻訳されるとわかっていたのになぜ関西弁にしたのか、自分でもちょっとよくわからないですけど(笑)。

――確かに(笑)。「みがきをかける」は、歌舞伎の『娘道成寺』がベースになっていますね。その時から古典を下敷きにした連作短編のアイディアはあったのでしょうか?

松田:その時点ではなかったけど、「みがきをかける」で古典をリライトしたのが自分的に面白くて、これもっとやれるなって。それとは別にある時、「『おばちゃんたちのいるところ』、それはつまり、『Where the Wild Ladies Are』だ!」とパッと頭に浮かんでメモっていました。「アンデル」の連載の話を受けた時に、そのふたつが結びついたんです。もちろん、このタイトルはモーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』からきています。

――ほかに『四谷怪談』のお岩さん、『皿屋敷』のお菊さん、『牡丹燈籠』のお露といった幽霊がモチーフになっています。

松田:私は性格が暗く集団行動や学校が苦手で、本を読んでいるほうが好きだったので、小さい頃から昔話や伝説、怪談なども、よく読んでいました。姫路に住んでいたので、遠足やなんかで姫路城に何度も連れて行かれるんですが、そこにお菊井戸があって。だからお菊のことも知っていたし、お菊井戸も自分の日常にあったんです。それが夏になるとテレビの怪談で出てくる。日常と非日常が自分の中で混ざり合う感覚がありました。

――なるほど、『おばちゃんたちのいるところ』には、日常と非日常が時空を超えてつながるような感覚があります。

松田:昔話の女性と現代の女性たちが時間を超えてつながるような作品にしたかったんです。昔から本や映像作品で女性の幽霊や怪物が出てくるとテンションが上がる自分がいて。でも成長するにつれて、なぜ彼女たちがお化けになったのか、なぜ殺されたのかということが理解できるようになると、物語の中で一方的に女性が酷い目に遭う作品が多いことに気付きました。

 最近、なんとなく2000年代のラブコメを見返してたら、偶然続けて見た『ブリジット・ジョーンズの日記』と『Something Borrowed/幸せのジンクス』という映画のどちらにも、主人公の女性が『危険な情事』というスリラー映画を見るシーンがあったんです。グレン・クローズのあの有名な鬼気迫る演技が、「こんな風になっちゃったらどうしよう」という怯えとして使われている。でも彼女が恐ろしくなったのは、そもそも彼女と関係を持った既婚男性が不誠実な態度をとったことが原因なんですよ。私もそうだったけど、原因をつくったマイケル・ダグラスではなくグレン・クローズのヤバさだけが観客にインプットされている。それと同じ構造が日本の古典や小説にもあると思うし、もちろん現実でもそうです。『おばちゃんたちのいるところ』でやりたかったことのひとつは、古典のジェンダーバイアスや差別的な側面を書き換えて、殺されたりひどい目にあった女性の居場所をつくることでした。物語で殺されてしまった女性たちに、どうしたら今、居場所を用意できるか。それをイメージして書きました。

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