「エア マックス95」ブームから20余年……世界的スニーカーブームはいかにして訪れたか?

 「Stock X」や「SNKRDUNK」など、スニーカー売買の専用アプリが続々と登場するなどして、世界的なスニーカーブームが加速している昨今。90年代に「エア マックス95」旋風を体験した世代にとっては、どこか懐かしさを感じさせるムーヴメントかもしれない。実際、昨今のブームでも復刻モデルの「エア マックス」や「エア ジョーダン」シリーズは特に人気で、人気ブランドとのコラボアイテムには数十万円のプレミア価格が付くことも珍しくない。

小澤『1995年のエア マックス』(中央公論新社)

 しかし、昨今のスニーカーブームは、90年代のブームの流れを汲んだものでありつつも、その内実には様々な違いがあるという。レアなスニーカーは現在、投資の対象にさえなっているというが、そうした状況はどのように生み出されたのか。新書『1995年のエア マックス』(中央公論新社)の著者である編集者の小澤匡行氏に、90年代から現代にかけて、スニーカーブームがどのように変遷したのかを聞いた。

「90年代のスニーカーブームは、企業によるマーケティングによって生み出されたものではなく、さまざまな要因が複合し、一本の線に繋がって起きたものでした。ブームを牽引したランニングシューズ『エア マックス95』は、それまで同シリーズが打ち出していた軽快なデザインとは異なり、ソールは黒、アッパーは下に向かって色が濃くなるグラデーションを採用。野暮ったささえ感じさせるところがあり、発売当初はあまり評価が高くはありませんでした。しかし、そのデザインがアウトドア系のスニーカーやデコラティブなバッシュに親しんでいた層にとっては斬新なデザインとして映り、ストリートでの評価が高くなっていきます。その後、雑誌『Boon』で特集が組まれたり、当時アイドルとして一世を風靡していた広末涼子さんがNTTドコモのポケベルのCMで履いたり、SMAPのヒット曲『SHAKE』のジャケットで木村拓哉さんが履いたりしたことで、96年の後半から97年にかけて人気が爆発しました。現在では、企業が上記のような流れを意図的に作って新たなムーヴメントを起こそうとすることも珍しくないと思いますが、当時は一般ユーザーが主役で、だからこそ面白かったと思います」

 当時の経済的な状況もまた、スニーカーブームと無関係ではなかった。日本ではバブル経済の崩壊後、円高の流れが続いており、1995年には初めて1ドル=80円割れを記録している。アメリカで現行モデルを100ドルで購入すれば8,000円、日本で倍の値段の16,000円で売っても、消費者にとっては納得のできる価格帯だった。バイヤーたちはまさにトレジャーハンティングのような感覚でアメリカに買い付けに行き、『Boon』をはじめとした雑誌はそれらの商品を体系化、新たなマーケットを創造していった。

90年代の雑誌『Boon』(祥伝社)

 しかし、日米協調介入などが実施されたことでドルが高く設定されていき、1997年末には1ドル=130円台を推移するようになる。同じ100ドルのスニーカーの価値は、2年間で5,000円も変わってしまったのだ。さらに、お金に目が眩んだ仲介業者が値上げし、競争が激化した結果、「エア マックス95」は一足あたりの価格が30~40万まで高騰し、“エアマックス狩り”と呼ばれる強奪行為が社会問題化するなどの弊害も生まれて、ブームは鎮静化していった。

 一方で、ストリートでは新たな潮流が生まれていた。クラシックなローテクスニーカーへの回帰である。アディダスの「キャンパス」やコンバースの「ジャックパーセル」が人気を博し、ハイテク路線が不調になっていたナイキでは「エア フォース1」がヒップホップカルチャーのアイコンとして支持されるようになっていった。さらにナイキは、1999年にヴィンテージ市場で幻とされていた「ダンク」を復刻し、第二次スニーカーブームでも存在感を増していく。

『Sneaker Tokyo vol.2 “Hiroshi Fujiwara”』(写真はモノクロ。マリン企画)

「1998年はスニーカーにとって冬の時代とされていますが、それと前後して裏原宿系ファッションが興隆しています。裏原宿系において絶大な影響力を持った藤原ヒロシさんは、古くから『ダンク』を愛用していて、ナイキにアドバイスを求められた際に『ダンクを復刻してほしい』と頼んだという逸話も残っています。第二次スニーカーブームは、音楽やスケートボード、ヒップホップといったカルチャーとの結びつきが強かったのが特徴で、スポーツメーカーの側もそれを意識し、ストリートに向けた商品を開発するようになっていきます」

 インターネットが爆発的に普及し始めたのもこの頃だ。オークションでの売買が浸透していくと、コピー品が生まれる温床にもなったが、二次流通の市場は10数年をかけて着実に整っていった。2010年代になると、ストリートカルチャーに精通したデザイナーがハイファッションの世界で活躍し始め、いよいよ現在の第三次スニーカーブームの準備が整う。

「2010年代になると、90年代後半から00年代にかけてストリートカルチャーの養分をたっぷりと吸った世代が、第一線で自分たちのクリエイションを発表するようになります。オフホワイトの設立者で、2018年にルイ・ヴィトンのメンズ アーティスティック ディレクターに指名されたヴァージル・アブローなどはその代表格でしょう。彼は日本の裏原宿カルチャーに多大な影響を受けていて、そのエッセンスをアメリカ的に再解釈することで、さらにスニーカーの可能性を広げていったところがあると思います。ネットで二次流通の市場が世界規模で整い、本物が適正価格が購入できるようになったことで“スニーカーヘッズ”と呼ばれるマニアたちも増えました。いまや常に新作が発表され、市場の原理であっという間にそのスニーカーの価値が定まるという驚くべき状況になっています」

ナイキ「オフホワイト The Ten エア ジョーダン 1 “シカゴ”」

 スニーカー好きにとってはかつてないほど面白い時代といえそうだが、こうした状況には懸念もあると、小澤氏は続ける。

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