芥川賞候補5作に共通した「テーマ」とは? 円堂都司昭が読み解く、文芸の現在地

 第164回芥川賞は、宇佐見りん『推し、燃ゆ』に決定した。順当な結果だと思う。同作を含め候補作のうち、乗代雄介『旅する練習』、木崎みつ子『コンジュジ』、尾崎世界観『母影』の4作がすでに書籍化されたのに続き、砂川文次『小隊』は2月12日に単行本が発売予定となっている。今回の5作は、相互に共通した要素がみられ、同時に候補になったのは興味深かった。雑誌掲載時ではなく受賞作決定後に本で読む人のほうが多いだろうが、候補作にも手をのばし読み比べればいっそう楽しめるだろう。

 まず、対照的なみかけをもっているのが、砂川文次『小隊』と乗代雄介『旅する練習』である。『小隊』では北海道の釧路周辺で行われるロシア軍との戦闘を、自衛隊の小隊を率いる安達の視点から描く。元自衛官の作者の書きぶりには、現代の地上戦のリアルとはこういうものかと信じさせる迫力がある。一方、『旅する練習』は小説家の「私」が、中学受験を終えたばかりの姪・亜美(あび)と我孫子から鹿島まで歩いて旅する話。「私」はいくつもの風景を文章でスケッチし、サッカーに打ちこむ亜美はドリブルやリフティングを繰り返す「歩く、書く、蹴る」の道中である。

 緊迫した戦場とのんきな2人旅では正反対のようだが、2作とも日常と危険が隣りあわせであることを主題にしており、どちらの面に重点をおくかの違いだ。『小隊』において戦場にむかう隊員が知りたい外の情報は、政府の外交筋がどうこうではなくファイターズの試合とかだし、戦場から帰還する車でラジオをつけると普通に放送していた。とはいえ、住宅地にまで戦禍はおよんでいる。安達たちは戦闘前に避難誘導のため近隣住民を訪問したが、仕事、金、子どもをどうするのかと反問する態度で応じなかったシングルマザーは、逃げられなかったと示唆される。そうして戦時の不条理と過酷さが印象づけられる。

 これに対し、『旅する練習』の舞台は、日本でも新型コロナウイルスの不安が高まり始めた頃と設定され、旅の終了直後に緊急事態宣言が発令されたとされる。利根川沿いを行く道程では、亜美がカワウの死骸をみつける不吉な場面があり、物語は最後に急転する。作中では、小説家らしく「私」が、田山花袋、柳田國男など文学史に名を残す人たちに思いをめぐらせ、亜美がサッカー好きゆえにジーコなど鹿島アントラーズの話題も多い。たまたま出会った女子大学生と旅をともにする以外、特にドラマチックな出来事はない。だから、読む途中でやや冗漫さを覚えなくもない。

 ところが、ラストの急転により、それまでのどうということのない日々がかけがえのないものだったと思い知らされ、すべてが愛おしくなるのだ。文学史やアントラーズの過去のエピソードへの言及も、世界の時の積み重なりを感じさせるものとして効いている。

 『旅する練習』では小6の姪が登場したのに対し、尾崎世界観『母影』では小学校低学年の女子が主人公となる。その母親の仕事場であるマッサージ店に娘の「私」もいることが多い。隣のベッドからカーテン越しに母の働きぶりに接しているけれど、まだ幼い「私」はなにが行われているか、よく理解していない。だが、教室では「変タイマッサージ」とからかわれ、いじめられるし、なにか恥ずかしいことをしているとは察している。

 クラスメイトのなかでも「お前、死ねです」などといいながら特につっかかってくる男子がいる。「私」は母と一緒に行った銭湯で、その彼がやはり母親に連れられ女湯に入っているのに出くわす。お腹の下にあるものを両足の間にはさみこんでいたのを目撃してしまう。後にその男子とペアになって作文を書くように先生からいわれ、なりゆきで彼の家に行くが、男子と仲良くなるまでにはならない。彼は壁を作ったままだ。

 母は客の体に直接触ってなにかしているが、カーテンの影を見るだけの「私」には本当はどうしているのかわからない。「私」は男子の裸を見たうえ、彼の家に上がりこんでおかあさんやおじいちゃんとも接したものの、彼との壁はなくならない。この距離感の描写が絶妙。「私」の相手に近づきたい思いと、年齢ゆえの勘違いや思いこみがごっちゃになって、妙なやりとりになる。それが面白哀しい。

 作者の尾崎世界観は、クリープハイプで作詞作曲、ボーカル、ギターをつとめるバンドマンだが、木崎みつ子『コンジュジ』では架空のロックスターが設定され、彼に憧れる少女が大人になり変化していく様子を追う。主人公せれなは、母親が逃げ、続いて家にきたブラジル人女性も出ていって以後、父から性的虐待を受ける。同時に彼女は、イギリスのThe Cupsのボーカリスト、リアンと恋愛関係になる妄想を生きていく。同作は、父との悲惨な生活、リアンとの甘い夢、リアンの伝記というリアリティの異なる三層を行き来しながら進む。

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