宇佐見りん、尾崎世界観らがノミネート 1月20日発表「第164回芥川賞」はどうなる?

尾崎世界観「母影」(『新潮』12月号)

 クリープハイプのギターボーカルである尾崎世界観の文芸誌デビュー作として話題だ。が、彼の最初の小説『祐介』(文藝春秋、2016年)が(業界横断作家の多くがそうであるのと同様に)自身の職業に近い「バンドマン」を主人公としたのと異なり、今作では自分の「経歴=プロフィール」と異なる存在を描くことこそが試みられている。

 本作は、先生曰く「遅れている」らしい「お母さん」との暮らしが、小学校低学年の「わたし」の目線で描かれる。タイトルとも関係して特徴的なのは、おもな舞台が性的なサービスをふくむマッサージ店だという点だろう。宿題をする「わたし」の横で、カーテン越しの「お母さん」は「お客のおじさん」にマッサージしては、ときどき「変なこと」をしている。その際にカーテンに映る母の影というモチーフは、試着室、そして結末部分など、作品の隅々に器用に散りばめられている。

 このとき重要なのは、その物語内での重要度に比して「お母さん」が「影」や「声」、「手」の感覚をとおして、ぼんやりと描くに留められている点だろう。「わたし」はなにもわからないのではなく、ほんとうはさまざまなことに気付き始めている。だからこそ「わたし」は一線を超えるのを周到に回避するのだ。

 だからおそらく、結末部分において、「子供らしく」作文を読めて満足する「わたし」の思惑をとらえるのは、思いのほか容易ではない。そして、こうしたひねくれ具合にこそ、肩書き云々を超えて、ちゃんと尾崎世界観の小説だ、と思うのである。

砂川文次「小隊」(『文學界』9月号)

 「戦場のレビヤタン」(『文學界』2018年12月号)で第160回芥川賞にノミネートされて以来、2度目の候補入り。文學界人賞受賞作である「市街戦」(2016年5月号)から「元自衛官」という「経歴=プロフィール」を活かした作品をいくつか送り出してきた。今作も同様である。

 安達が率いる小隊は北海道にまもなく上陸してくるロシア軍との地上戦に備え、住民の避難誘導の任務にあたっていた。ある日、開戦の報せが届いたことで、次第に戦闘は激化していく。あらゆる細部が、ともすれば元隊員ならではのリアリティとして評価されかねない。だが、ほんとうのところ、その戦場のリアルを判断できるものはほとんどいないのではないか。われわれは作中に氾濫する軍事専門用語を前に、既知の言葉(セブンイレブン、サッポロビール、Amazonギフトカード……)を目にすることでひと安心する程度のことしかできない。作品の結末近くで、安達に「うるさい」となじられる市民の声に、どうすれば似ずにいられるのか。答えは出ていない。

 とはいえ、念のために注意しておけば、(それが強みであるのは事実だが)砂川の元自衛官としての経験がそのまま私小説的な面白味になるわけではない。たとえば、新型感染症の流行を予言した(?)と話題になった近作『臆病な都市』(講談社、2020年)がそうであるように、近年の砂川の強みは、経歴に裏打ちされたリアリティから立ち上がる、むしろSF的ですらあるフィクション性のほうにある。だからこそ、自衛隊モノを続けざまに書きながらも、けっして読者を飽きさせないのだ。それは断言できる。

 選考結果の発表は、1月20日(水)。決戦を制するのは誰か。

■竹永知弘
日本現代文学研究、ライター。おもな研究対象は「内向の世代」。1991年生。@tatatakenaga

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