『閉鎖病棟』が問いかける“閉鎖”の意味とは? 24年間、読みつがれる原作小説から紐解く

 笑福亭鶴瓶、綾野剛、小松菜奈ら実力派俳優が熱演する映画『閉鎖病棟 ―それぞれの朝―』が、11月1日に封切りされる。精神病棟というモチーフも話題を集める一作だ。1995年に山本周五郎賞を受賞した原作小説『閉鎖病棟』(帚木蓬生)は、24年経った今、再度映画化されるほどに、長く読みつがれている作品である。※1

 映画作品と原作小説では、時代背景や視点など、いくつか違いが見られる。この記事では、原作小説から『閉鎖病棟』という作品に触れていきたい。

現職精神科医による、過不足なしの"リアル"な描写

 『閉鎖病棟』の作者、帚木蓬生氏は、現職の精神科医である。だが、ストレートに医者を目指したわけではなさそうだ。東京大学仏文科卒、TBSに勤務後、九州大学医学部にて医学を修めている。彼が「小説」という表現形態を取り得たのは、その経歴ゆえだろう。

 さて、そんな作者によるこの一作では、驚くほど淡々と入院患者の日々の様子が描かれている。入院病棟の日常を「映像」という形で表現したとき、そのインパクトは大きいだろう。朝から大声で勤行を上げるドウさん、前髪を抜くことに執念を燃やすダビンチなどの患者を見て、"普通"だと思う人はまずいないはず。しかし、この小説での日常描写は、フラットだ。文章を読み、思い描く"非現実的"な光景と、あくまで平静を保つ表現に、ミスマッチすら覚える。読者が感じる異様さに、文章がフォーカスしてこないからだ。彼ら患者にとって当たり前の日常が、何も削らず、何も足さず、ありのまま綴られている。現役精神科医ならではの表現だ。

 タイトルから、ホラーやサイコミステリーといったジャンルを連想する人もいるかもしれない。しかし、本作はそういった"非現実的"な体験を得る作品ではない。関係のない時代・場所の、関係のない人々の日常に、普遍的な悩みや課題を見いだせる。作中では「とある殺人事件」が起こるが、それが精神病棟だから起こり得たと言う人はいないだろう。

チュウさん、昭八、秀丸、由紀ーーそれぞれの過去と苦悩、家族

 映画では笑福亭鶴瓶演じる「梶木秀丸」を中心に構成されているようだが、小説では群像劇の形を取り、チュウさん、由紀、秀丸、昭八にそれぞれスポットが当たる。チュウさんは精神分裂病と診断され、四王子病院の桜病棟に入院している。過去、病気からくる幻聴に苦しみ、発作的に父親に手をかけた。幸い未遂に終わったが、それがきっかけで、もう30年以上入院生活を続けている。入院生活でチュウさんと特別親しく交流を重ねる昭八ちゃんは、精神薄弱という病名がついている。発話が自由ではない分、動作でのコミュニケーションに長けている。秀丸さんは、殺人による死刑宣告を受け、執行されるも、息を吹き返し社会に放り出された。二度死刑を執行することはできず、死ねなかった秀丸さんには戸籍すら残らなかった。書を得意とする穏やかな性格で、チュウさんはよく、彼の車椅子を押して外出する。由紀は、不登校が理由で通院する女子中学生である。愛らしい見た目を、チュウさんが"見初め"、純粋な好意を寄せている。若さや美しさへの憧憬が、チュウさんの日常を鮮やかに彩る。

 彼らは、胸が重く、苦しくなるような事情を抱えている。親族間殺人の描写が多いが、それは舞台設定の特殊さに拠るものとは言い切れない。統計では、殺人事件の被害者の親族が被疑者である割合は、近年ますます高くなっている。※2

 家族という存在は、美しい言葉で語られがちだ。しかし実際のところ、あり方は無数に存在する。作中に登場する入院患者の中で、頻繁に家族や親族と会える者は多くない。入院患者の家族への思いも、家族からの入院患者への処遇も様々だ。チュウさんは、月に一度、母親の顔を見に実家へ帰る。母親は喜ぶが、同じ敷地に住む実妹やその家族は疎ましさを隠せない。

 家族は「精神病患者」と向き合わざるを得ない。登場人物に感情移入すると、家族の非情さに憤りさえ感じる。しかし、自分がその家族だったら、と考えたとき、憤りは迷いに変わる。チュウさんを厄介払いする実妹やその家族の苦悩は、ラストに、断片的な形で言及される。病で苦しむのは、家族も同じだ。まるで家族同士負の鎖で結ばれているようにも見える。だが、簡単に解けないからこそ、そこに強力な"関係性"が生まれる。本人たちの幸不幸には関わらず、やはり「家族」は「他人」にはなれないのだと私は感じた。人としてあまりにも初歩すぎるその感想は、複雑に絡まった彼らの関係性からも見て取れるのである。

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