連載『音楽とダンスの境界線を歩く』第2回:ラッパーとダンサーの“垣根”から生まれた新潮流 90年代R&Bに至る軌跡

テレビからダンスの星が生まれた90年代

 ラッパーの地位が上がればダンサーの地位は下がる。相対的なその構図に異変を生じさせたのがボビー・ブラウンの登場だった。ニュージャックスウィングのヒット曲「Every Little Step」(1988年)は日本のCMにも使われたが、それだけではない。MVをCM用にアレンジした映像が流れることで、ダンスの様子も画面におさめられる。意図して採用したのは自明であり、ボビーが踏むステップ“ランニングマン”や“ロジャーラビット”にはムーンウォークに匹敵する新たなバイブがあった。“ニューダンス”という総称が付されたのも得心がいく。

Bobby Brown - Every Little Step

 新たなステップが生まれれば、新たなスターが生まれる。この方程式に取り込まれたのが、地元の久留米でブレイクダンスをしていた二人兄弟。ボビーのMVを目にするなり次のフェーズを嗅ぎ取ると、やがてL.L BROTHERSと名乗って全国区のスターになる。

 ネットなき時代にスターになるには雑誌かテレビに出る以外に方法がなかった。ストリートダンスに特化した雑誌はまだなかったが、テレビ番組はあった。1989年にスタートしていた『DADA L.M.D.』(テレビ朝日系)からはダンス&ボーカルグループのZOO(のちのEXILE HIROが在籍)が、翌年の『DANCE DANCE DANCE』(フジテレビ系/司会:ダウンタウン)からはMEGAMIX(SAM他、TRFの前身)がデビューしている。ただし、いずれも短期間で深夜枠。一般層に浸透するような類ではない。

 その点、L.L BROTHERSを1990年に輩出した「高校生制服対抗ダンス甲子園」は、日曜夜8時のゴールデン枠『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)内の人気コーナーだった。彼らのほかにも、現政治家の山本太郎(メロリンQ名義)やサイバーエージェントの曽山哲人(が所属していたDorD)など、出演者の“あの人は今……”が感慨深い。

 「ダンス甲子園」の功績はネーミング同様、全国の高校生を中心にストリートダンスを普及させたこと、つまり今日の必修化の先鞭をつけたことである。そしてダンスのスキルで歌手や役者にもなれる、芸能界に新たな登竜門ができたことだった。

ニューダンスとニュースクール

 さらに重要なことが二点。ニューダンスが主流になり、ダンスらしいダンスがこの世界に返り咲いたこと、またそれにともないヒップホップが転換期を迎えたことである。

 ニューダンスはニュージャックの前兆となったラテンフリースタイルやヒップハウスのようなシンコペーションに富むリズムへの呼応として誕生し、日本ではホーシングという名称で親しまれるハウスダンスへと改良された。このときジャズダンスが手本になるのは前回述べたとおり。またランニングマンに似たステップは70年代にもあったと伝えられているように、既存のディスコダンスにニューダンスは近い、もしくは発展型とも言い換えられる。

 ブレイキンではスクラッチやTR-808に見られる無機質なサウンドへの呼応が画期的なムーブを編み出した反面、ダンス本来の有機的なバイブが図りづらかったのは否めない。そこを興趣とするか否かは個人差にもよるが、L.L BROTHERSのようなブレイキンからダンスを始めた世代にとって、先祖返りかもしれないニューダンスにすら新鮮味をおぼえたのは不思議ではない。

 またヒップホップに変化をもたらした点においては、文字どおり“ニュースクール”という世代交代を示唆する言葉が生まれた。以降、繰り返し登場するニュースクールの定義は曖昧だが、最初に使われたニューダンスではダンスが堪能なラッパーが占めることで、視覚的にも相違がわかりやすい。例えば主演作『House Party』シリーズ(1990〜1994年)でアクターの才能も開花させたKid 'N Play(NY)はL.L BROTHERSのプロトタイプのような風貌だが、古典のチャールストン(膝下を交互に開閉)をツイン形式にアレンジした彼らのステップはそのままキドゥンプレイと命名され、現在のヒップホップダンスに継承されている。

Kid 'N Play - Gittin' Funky (Official Video)

ラッパー+シンガー+ダンサー=R&B

 Kid 'N Playのようなラッパーとボビー・ブラウンのようなシンガーを同じ座標に立たせたニューダンスはR&Bを生み出す原動力にもなった。従来のソウル〜ブラックコンテンポラリーという枠では対応できないが、ヒップホップに押し込むのもはばかる。双方のフレイバーを足してダンスで割った新語=R&Bが必要とされていたのである。

 日本では“ソウルフルな曲を上手に歌える”ことがR&Bの条件とされ、90年代全般にかけ和製R&Bの育成が隆盛。おもに女性歌手の台頭によりディーヴァが量産された。結果、本来の意味合いに近い“ダンスが上手(そう)な歌手”との二極化が明確になる。EXILEに安室奈美恵、Crystal Kayや小柳ゆき、SUGARSOUL、DA PUMP、DOUBLE、B☆KOOLなどを本来のタイプと規定するなら、いっぽうではACO、UA、宇多田ヒカル、倉木麻衣、CHEMISTRY(2001年デビュー)、bird、平井堅などがもうひとつのR&Bを形成する。

 そしてここに例外をつくったのがMISIA。両極にアクセスできる、架橋として希有なポジショニングを確立した。デビュー曲「つつみ込むように…」(1998年)のMVにて踊るのはEXILE MAKIDAIやU-GE(J.S.B.underground)らだが、リミックスになるとDJ WATARAIやDJ MASTERKEYなどをいち早く立て現場になじませる。このバランスが遠因となり、昭和の重鎮なき『NHK紅白歌合戦』の真打を務めさせるまでになったのかもしれない。

MISIA - つつみ込むように... (Official HD Music Video)

小室ファミリーと“それ以外”

 そして以上の構図を大胆かつ端的に言い表すなら、“小室(哲哉)ファミリー(&周辺)とそれ以外”という立て付けではどうだろうか。小室ファミリーの歌手すべてがダンスに長けているわけではないが、“長女”というべき安室の絶対的な存在と、非ダンサーでありながらダンサーへの慧眼がある小室の不思議な求心力が相まって、和製R&Bを牽引してきた。

 学生時代にプログレシッブロックにのめり込み音楽の道を極め始めた小室にとって、ダンスは後天的な要素。定説では松浦勝人(avex代表取締役会長)の助言によるところが大きいとされている。そのavexが出資し小室がサウンドプロデュースを務めていたのが六本木のヴェルファーレ(1994〜2007年)だった。

 日本独自のパラパラとユーロビートが代名詞の不夜城。このイメージが鮮烈であるゆえに、国内のR&Bを二極化ないし複雑にした、との見方もやぶさかではない。つまりストリートダンスと軌を一に発展したR&Bが、いっぽうでは非黒人主導のダンスミュージックに吸収される、ある種のミステリーである。それは安室がジャネット・ジャクソンを私淑しつつも、小室ファミリーではユーロビートに鼓舞され熱唱していた(「TRY ME 〜私を信じて〜 」「太陽のSEASON」「Stop the music」)ことと同質のミステリーと言っていい。小室の手から離れ、SUITE CHIC(2002〜2003年)にやがて参加することがその反動あるいは揺り戻しであるなら、腹に落ちる話だが。

TRY ME ~私を信じて~ / (30th Anniversary -更新版-)

※1:『丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記』(著:川勝正幸)

連載アーカイブ

連載『音楽とダンスの境界線を歩く』第1回:ストリートダンスのルーツ探訪 ブレイキンが国内外で覇権を握るまで

ダンスブームの昨今、その歴史を音楽サイドから覗いたとき、どんな風景が広がっているのか。ライター 若杉実が時代を三分割して綴ってい…

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