連載『音楽とダンスの境界線を歩く』第1回:ストリートダンスのルーツ探訪 ブレイキンが国内外で覇権を握るまで

2008年に指導要領の改訂で中学校保健体育にてダンスが必修化し、2018年にブエノスアイレスでの『ユースオリンピック競技大会』でブレイキン(=ブレイクダンス)が種目に採用され、2020年にプロダンスリーグ『D.LEAGUE』が発足。記憶に新しい『パリ 2024 オリンピック』(パリ五輪/2024年)にてブレイキンが採用される。その間、恋ダンス(2016年/TBS系ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』より)や、きつねダンス(2022年/ファイターズガールによるチアダンス)、「パプリカ」のダンス(2018年/Foorin「パプリカ」の振り付け)にバブリーダンス(2017年/大阪府立登美丘高等学校ダンス部の演目)といったカジュアルな踊りが若者を中心にSNSで拡散されバイラルヒットとなった。
空前絶後という枕が一ミリも大仰ではないダンスブームの今日、その歴史を音楽サイドから覗いたとき、どんな風景が広がっているのか。時代を三分割して綴ってみる。
本題に入る前に、“音楽サイド”という視点をあえて述べたことに触れておきたい。理由は主に3つ。まずシンプルに、この記事が「リアルサウンドMUSIC」に掲載されること。2つ目は、時代設定をストリートダンス以降にしているため。そして以上の2つを前提に、ダンスと音楽は本来不可分のものでありながらも、現状ではそのような扱い方が容易ではないことが3つ目に挙げられる。課題との首引きは避けられないが、多くを語られてこなかった歴史を探訪していく。
ディスコから辿るストリートダンス
そもそもストリートダンスとは何か。ストリートファッションと同様、音楽などのポップカルチャーから生まれた踊りが定義となる。起源を辿る道は無数にあるが、そのうち本テーマにふさわしいひとつが、ディスコを現場にして生まれたシーンになるだろうか。プロ/アマ問わず自由に踊るというのがダンス本来の醍醐味であるのは間違いないが、それとは別に集団から生じる競争心理、“誰が一番か”も避けられない。当時の言葉でいう“ダンスコンテスト”が定期的に催された。
日本のディスコ(ゴーゴークラブ)の最古参とされるCRAZY SPOTが渋谷の仁丹ビル(現・徳真会クオーツタワー)の裏隣に開店したのが1960年代中盤。当時のディスコはジュークボックスによる営業が大半で、DJブースがあってもターンテーブルが1台あるだけ、ミキサーはなかった。あるいはバンドを入れて生演奏させる。いずれも現在の形態との相違は客との“主従関係”が真逆になること。バンドにも制約がつき、決められた曲を決められた構成で演奏する。今では廃語になったチークタイムではキューピッド役となって、ダンスフロアを相聞歌で埋めつくす。駆け出しのミュージシャンが副業でやるケースがほとんどだが、たとえばそのうちのひとりに松本隆のような名前も挙げられる。慶應ボーイだったときにドラマーとして契約。その後の進路(はっぴいえんど、作詞家等)からは想像できないが、演奏の基礎が養われたとの発言も残していることからも、メリットはそれなりにあったに違いない。
それでもDJが幅を利かせる時代がくると、いわゆる“箱バン”(ディスコ、ナイトクラブ等の専属バンド)と呼ばれる彼らも、やがて箱から“バン”され御役御免となる。ただし、レコードでパンパンになった鞄とターンテーブルを手が往復するという光景はまだ業界では浸透しておらず、DJはブースの棚に常備されたレコードを使うのが一般的だった。依然、客側にタスキが渡されていたような格好だが、ラジオDJのようにマイクパフォーマンスを導入する場面において拮抗するような関係も見せた。
現代ダンスの礎を築いた“ステップ”
ここで踊る側に視点を移すと、ローアングルに動きが集中するのがわかる。つまりステップが中心となるスタイル。ソウルステップ、ボックスステップ、ステップダンス等々。ストリートダンスのルーツを紐解く上でも理に適う特徴と言っていい。
いくつかある起源のうち、史上最古のストリートダンスと目される“ジュバ”もステップの動きに集約されるスタイルだった。1800年代前半、南北戦争前夜の奴隷時代にアフロアメリカンたちのあいだで行われていたダンス。その名手とされた“マスター・ジュバ”ことウィリアム・ヘンリー・レインについては、英文豪 チャールズ・ディケンズの紀行録『American Notes(アメリカ紀行)』(1842年)に触れられているほど。彼が北米大陸を巡遊した際、マンハッタンのダンスホール FIVE POINTSに出演していたヘンリーに感銘したことがその書に綴られている。凄烈な足さばきを特徴とするジュバだが、イメージでは昨今のシカゴフットワークに近いのかもしれない。
ジュバは後年のチャールストンやリンディホップなどタップの淵源とされるスタイルに昇華されるが、その一部はジャズダンスやハウスダンスに受け継がれるなど、現代ダンスの礎ともなった。
タップはボディスラップ(手拍子や膝を中心に体を叩きながら踊ること)同様、それ自体が演奏行為にあたり、ダンスのなかでは特殊な位置づけになる。欽ちゃん(萩本欽一)ファミリーや、たけし(ビートたけし)軍団などタップに取り組む芸人が多いのも、話術やコントに有効なリズム感を養うためとされている。体を動かし音を鳴らし、それを耳でキャッチし体をまた動かす。リズムを全身で捉えるにはこれ以上、理想のダンスはない。付言すると、一般的にはムーンウォークと認識されているバックスライド(厳密には別物。ムーンウォークはその名のとおり無重力を模したムーブ、“フロート”寄りのステップ)も、タップの名手 ビル・ベイリーが映画『Cabin In The Sky』(1943年)で披露していた。






















