『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』著者・中村拓哉 “ヒップホップが似合う国=日本”に投げかけるメッセージ

SEEDA『花と雨』から学ぶ“言葉の圧縮”
――中村さんが批評に興味を持ったきっかけは、何だったんですか?
中村:もともと小説を読むのは好きでしたが、批評を知ったのは大学に入ってからです。それとは別に日本語ラップもずっと聴いていて。自分のなかではそのふたつは自然に結びついていたのですが、どうやら世間ではそうではないらしいと気づきつつも、やはり日本語ラップ批評を書き始めてしまいました。その当時、日本語ラップを扱うメディアとしては「Amebreak」(現「ABEMA HIPHOP TIMES」/※2)などがありましたが、もっと深いところまで日本語ラップを論じる文章はないのかと、若気の至りでもどかしく思っていて、それで自分で批評を書き始めたところもあったと思います。
――その感覚が本書につながっていくわけですね。
中村:そうですね。その点はいまだに変わっていないかもしれません。ですが、どうやら今や立場が逆転していて、僕の文章に「こいつは目立っているけど何も分かっていない」というような感想を持つ人もいるようで、時代は巡るんだなと思ったり(笑)。とはいえ自分の場合、はじめは「批評がいちばん」なんて素朴に思ってしまっていましたが、自分が書き手になる過程で、ジャーナリズムの重要性を理解していきました。磯部さんや二木信さんのような骨のあるジャーナリズムの書き手の文章から多くを学んできましたし。自分のことを棚に上げて言うと、いまは批評家なんかより若いジャーナリストの登場の方が必要なのではないか、などと言いたくなったりします。
――それこそ磯部さんが最近書かれた川崎のラッパーを扱った記事(※3)には衝撃を受けました。
中村:すごい記事でしたよね。もちろんヒップホップは楽しむものですが、その楽しさ自体が社会と地続きで、歴史の上にあり、政治的なものでもありうるということを誰かが言わないといけない。磯部さんはそういうことを書いてきた人だと思います。
――この本はどれくらいの期間をかけて書かれたんですか?
中村:2024年の1月から書き始めたので、全体では1年半くらいですね。最後の『花と雨』(SEEDA)の分析をやるかは最後まで悩んでいて、第2部の最後のほうに差し掛かったときに、ようやくやることに決めました。
――僕はてっきり『花と雨』の批評ありきでこの本を書いていたのかと思っていました。
中村:作品論、作家論は現在批評としてなかなか成功しづらい印象があったので。僕も昔は作品論を書いていたのですが、政治的な議論がSNSで多くされるような空気に変わっていったときに、そっちを論じなくてはと、方向転換をしたのがここ5、6年でした。だけど、やはり自分にとって原点となる作品分析ともう一度向き合わないといけないと、決意して書くことにしました。実際、今となっては第三部がなかったら本として完結していなかったと思います。『花と雨』を選んだのは、日本語ラップ史的にも、日本社会的にも、個人的にも重要な作品だからでした。
――文章でフロウの解説をするのってものすごく難しいじゃないですか。
中村:とても難しいですね。たとえば『blast』で昔、古川耕さんがZeebraのラップを譜面に起こして分析していたり、最近だとそれこそ吉田雅史さんの『アンビバレント・ヒップホップ』(ゲンロン)ではSEEDAのフロウや発声についてとても見事な分析がされていました。僕のものは本当に最低限触れただけの不十分なものです。
――いやいや。
中村:とはいえ、トラップ以降はラップにメロディがつくのが珍しくなくなった時代だからこそ、かつてのラップにあった、まさに“フロウ”としかいえない言葉の運動とそれを聴く気持ちよさを何とか書き残しておきたくもありました。
――あと本書の解説でグッと来たのが「日本(のヒップホップシーンで多く言われる韻)の場合、意味がどうこうじゃなくて、音だけあっていればいいみたいな感じで、ほとんど向こうほど深い意味はないっていうか」「俺には般若君のラップが、あっち(US)にCASSIDYっているじゃないですか?それに近いと思って。なんて言うのかな。二行あったら一行目の裏で韻だけじゃなくて意味的にもライムしてるっていうか」(P253/原文ママ)というSEEDAの言葉を丁寧に解説されていたところです。
中村:そのSEEDAの言葉が、自分がライムについて考えるときに常に基準になっていることです。ラップというアートフォームの構造を完璧に理解していないと言えない言葉だなと。それと、『花と雨』などSEEDAのラップを聴くたびに、言葉の圧縮度合が見事だなといつも思っていて、そこを解きほぐして論じたかった。圧縮されている分、普段ラップを聴かない人にはある種の分かりづらさがあるようなんです。
たとえば最近ひとに、「SEEDAを聴いてみたんだけど、〈スピっていたあいつは/Queensに送還〉(「Daydreaming pt.2」)ってどういう意味?」って聞かれたんです。そこでハッとしました。慣れてる僕らは「ニューヨークのクイーンズ出身の友達がいたけど、強制送還で帰国しちゃったのかな?」というような具体的な情景が浮かぶけど、必ずしもみんなそうではない。でも、ラップの言葉はほとんど、こういう具体的な現実の状況に即したリアルの表現なので、こういう言葉の感触にまずは慣れていくことがラップの歌詞を楽しむコツです。本書ではラップの言葉を“ディスクール”や“ミュトス=ミメーシス”と定義したうえで分析したのですが、そこで伝えたかったのはこういうラップの言葉に独特の感触だったんです。.
――僕は完全に感覚が麻痺していて、〈スピっていたあいつは/Queensに送還〉と聴いたら、みんなあの情景が頭に浮かんでいるものだと思っちゃっていました。
中村:みんな麻痺していると思います(笑)。そういう意味では、「Sai Bai Man (feat. OKI)」なんかは典型で、何も知らない人が最初から全部のリリックを理解できるわけがない。タイトルを見て「家庭菜園の歌?」と聞かれたこともありますし。
――間違ってはいないですけど、みたいな。
中村:そうそう。おそらく、ロックやJ-POPの言葉は何も前提がなくても分かるようになっている。でもラップには独自の楽しみ方があって、僕もはじめはその感触がわかっていなかった。何となくカッコよさげな言葉を並べているだけなのかな、くらいの解像度だった。でも、基本的にはラップの言葉は、そういうラッパー自身が置かれた具体的な状況に即した言葉だという必然性の上に作られていて、そこに気づくと面白くてやめられなくなる。
――もしかしたら、『RAPSTAR』(ABEMA)をきっかけにヒップホップを好きになった若い人は、僕らとは違う解像度でリリックを聴いている可能性は否めないですね。
中村:かもしれないですね。また、若い方にしか分からなくて、もはや僕らが理解できていない歌詞やリアルも多いだろうし。ともかく、これまでの文学観では、ラップのような“ディスクール”的な言葉は、具体的な状況に寄りかかっている分、言葉自体が自律していないため芸術性が低いと考えられる傾向にありました。それが納得できなかったので、覇権的な文学観からは取りこぼされてしまうラップの言葉の独自性や必然性を解き明かして、その芸術性や創造性を世に伝えたかったんです。
「異なるジャンルをヒップホップと並行させて考えることに興味がある」
――今後は何をしたいと思っていますか。
中村:この本はある意味では難解と言われても仕方ないとは思うのですが、それはとにかく自分の全力を出さねばという気持ちで、いわば自分のなかの必然性や使命感だけで突っ走ってきたためです。なので、今度はできるだけ広く読者に言葉を伝えるように努力してみたいですね。日本語ラップというカルチャーについて考えたことを元に、今度はそれを別のカルチャーと交差させて考えてみたり、とかもしてみたいです。宇多丸はかつて、日本語ラップシーンはいつまでもヒップホップの“生徒”なんだと言いましたが、僕もこれから何について書くにせよ、否応なくそういう気持ちでい続けるだろうし、そうありたいなとも思います。
――面白いですね。
中村:あと、僕の本はあくまで僕の世代が見た、それこそとても一人称的な日本語ラップ論です。無欠の普遍性があるだなんてことを主張したりはしません。「繰り返し首を縦に振ること」というのも、否応なくブームバップがモデルです。でも、下の世代、たとえば原体験がトラップやドリルであるような人から見たヒップホップ論はまた全然違ったものになるはずで、そうしたものも期待したいです。僕の本が、その人にとって大切なもの(それが日本語ラップやヒップホップと関係ないものであっても)を論じるときのなんらかのヒントになったらうれしいです。
――トラップとドリルは、日本人が前提としている社会構造とはさらに違うところから生まれているので、そこを若い人たちがどのように捉えているのかという。そういう文章を読んでみたいですね。
中村:序文で書いたことですが、批評の方法論が先に決まっていて対象を論じるというのだと、あまり批評として面白くない。関数が決まっていて、そこに批評の対象を代入して、解としての批評が出力されるだけ、みたいな。そうではなくて、その対象によって批評の方法や主体自体が変容してしまうところまで行ってほしい。そういうやり方で本を書くと、僕の場合は、日本語ラップ=「繰り返し首を縦に振ること」になったけど、トラップやドリルだとどうなるのか。また違った身体性や思考法を作り出すことができるはずです。

――日本のヒップホップシーンは過去最高と言っても過言ではない盛り上がりを見せていますが、中村さんはそれをどうみていますか?
中村:自分はもう若者ではないし、なにぶん本を書くために情報を半ばシャットアウトしていたので、訳知り顔で語ることはできないですが……ともかく盛り上がりと定着を感じますよね。メインストリームが大きくなる一方、オルタナティブなアーティストやシーンもどんどん出てくる。『日本語ラップ名盤100』は2022年までのことを書き、今回の本ではguca owlやWatsonのことまでは触れましたが、その後に好きになったラッパーもたくさんいます。CFN MALIK、MFS、7、MIKADO、Carz、Tete……挙げだしたらキリがないですね。
他方で、『親子星』を出して素晴らしい形でカムバックしたSEEDAや、『犯行声明』や書籍『脱獄のススメ』(相模出版)などを出して戦っているNORIKIYOに代表されるように、いまやベテランと言っていいようなラッパーたちが、昔のようにいまだにずっとカッコいいままでいてくれることも、僕には救いになっています。こちらもキリがないですが、MACCHO(OZROSAURUS)もISSUGIも5lackもPRIMALも……みんな重要な作品を出していますね。ともかく、シーン拡大のきっかけだった『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系)以前の視点からしたら奇跡のようなことが起こっているのが今のシーンなのかなと。
――先ほど「別のカルチャーと交差させてみたい」というような発言もされましたが、具体的にはどんなジャンルですか?
中村:異なるジャンルを、ヒップホップと並行させて考えることに興味がありますね。テクノやレゲエや、あるいはハイパーポップはどうか、など。あるいは、日本に限定して、日本語ラップと他ジャンル、たとえば邦ロック、ジャパレゲ(ジャパニーズレゲエ)、R&Bは同時代的にどう異なり、どう同じだったのかを検証していくことは面白いし必要なのではないか。音楽でなくてもいいですよね。マンガでもいいし。とにかく人の人生を狂わせるようなカルチャーと、それに狂わされた人たちの“リアル”について興味があります。自分の場合はそれが日本語ラップと批評でしたが、違うカルチャーだった場合はどうなるのかを知りたい。本のなかで“隠喩的理解”などと書いたのは、こういうことなんです。他人のリアルを知ることを通して自分のリアルをもっと理解し、変容させることができるようになる。逆もまた然り。そういうコミュニケーションが重要だと思います。すでにいくつか企画を話し合ったりしているので、いい形になればなと思っています。
――本書のキラーフレーズ「で、てめえはどうなんだ?」に帰結していく。このインタビューも期せずして、インタビュアーである自分に多くのものを突きつけられました(笑)。
中村:(笑)。僕もお話しできて楽しかったです。ありがとうございました。
※1:https://www.youtube.com/watch?v=rLqrgOOSW94
※2:https://times.abema.tv/hiphop
※3:https://shueisha.online/articles/-/254867






















