あいみょんから角松敏生までを支えるドラマー 伊吹文裕 「今もただの音楽ファン」楽しく自分らしく歩む旅

【連載:個として輝くサポートミュージシャン】伊吹文裕

 あいみょん、KIRINJI、星野源、秦 基博、ハナレグミ、中村佳穂、モノンクル、挾間美帆、TOMOO、さらには大貫妙子や角松敏生に至るまで、数多くのアーティストのサポートを務める伊吹文裕は、今日本で最も忙しいドラマーのひとりと言っても過言ではない。18歳で上京、音楽大学に通いながらプロとしてのキャリアをスタートさせ、ファンクもロックもソウルもヒップホップも幅広くカバーし、現在はJ-POPのど真ん中で活躍をしつつ、コアな音楽を愛するミュージシャンとリスナーの双方からも支持を獲得する、稀有な存在となっている。

 また、学生時代に結成したメガネブラザースとOOPS! PIG PALE ALE INC.(O.P.P.A.I.)に加え、2022年からは同じく多方面で活躍する盟友たちとともにLAGHEADSとしても活動し、自身のバンドとサポート活動を並行して行うプレイヤーが音楽シーンのキーマンとなっている今の時代を体現しているとも言えるだろう。昨年から42本にわたるあいみょんのアリーナツアーが終盤を迎え、星野源のアリーナツアー(石若駿とのダブルキャスト)もスタートした伊吹に、これまでのキャリアを語ってもらった。(金子厚武)

村上“ポンタ”秀一、沼澤尚……レジェンドたちの影響でのめり込んだドラム

撮影=林直幸

――ドラムを始めたのは音楽教室の先生だったお母さんの影響が大きいそうですね。

伊吹:そうですね。初心者用のドラムセットが実家にあって。でも、最初に始めた楽器はエレクトーンなんです。小4のときにコンクールで北海道大会に出て、今や共演させていただいている角松敏生さんの曲を弾いて、たまたま2位になったことがあったり。なので、音楽の基礎はエレクトーンで学んだんですけど、だんだんドラムの方が楽しくなっていって。

――それはなぜ?

伊吹:ドラムは“ドレミファソラシド”がないから、間違ってもバレなさそうだなと(笑)。自分にとっては、鍵盤楽器よりもドラムの方が自由に演奏できるなと思ったんです。好きなCDに合わせて演奏するときに、鍵盤ではアドリブを入れることができなかったけど、ドラムは好きなフィルインを入れたり、勝手にアレンジして好きなパターンで叩いたり、それがすごく楽しくて。母が最初に8ビートを教えてくれて、そこからは耳コピをしたりライブ映像を見たり、ずっと独学でした。

――中学、高校時代は何をやっていましたか?

伊吹:中高と吹奏楽部でパーカッションをやっていたんですけど、音楽好きな先輩や同級生が周りにいて、中学のときはフュージョン好きなキーボードの先輩と2人だけでセッションをしたり。高校生になってからようやくJ-ROCKに出会いました。それまでは母の趣味で、角松さんと70年代のプログレを主に聴いていたので……だいぶ偏った母親なんですけど(笑)。でも高校でELLEGARDEN、ASIAN KUNG-FU GENERATION、BEAT CRUSADERS、マキシマム ザ ホルモン、そのへんに一気にハマって。あと、POLYSICSもめちゃくちゃ大好きで。高校のときはオルタナ/パワーポップ系のバンドを3年間やってました。

――ドラマーとしてのルーツで言うと、角松さんファンのお母さんの影響もあって、沼澤尚さんの影響が大きいそうですね。

伊吹:いちばん最初にドラムってかっこいいなと思ったのは、村上“ポンタ”秀一さんのライブ映像を見た、たぶん僕が5、6歳ぐらいの頃です。それと同時期にちょうど沼澤さんと角松さんが一緒にやり始めて、1995年ぐらいにAGHARTAという覆面バンドを始めたり。(のちにV6がカバーする)「WAになっておどろう」はそのバンドの曲なんですけど、『長野五輪』の閉会式で生演奏していましたね。その頃に沼澤さんがアメリカでやっていた13CATSというグループの最後のアルバムも出て。僕はそのアルバムが本当に大好きで、「人生で一枚選べ」と言われたらそれになるかもっていうぐらい……まあ、一枚はとても選べないけど(笑)。でも、それぐらい好きなんですが、ただその頃はまだ6歳とかなので――。

――ドラマーという視点で聴いていたわけではない。

伊吹:ないですね。最初は13CATSのパーカッションのカール・ペラーゾが1人で演奏している曲が好きでした。そのへんのCDを僕がカセットテープに録音して、それを聴きながら家族みんなで車で4時間かけて、帯広から札幌に角松さんのコンサートを観に行くというのが、伊吹家の年に一度の重要なイベントでした(笑)。小6の時、角松さんのライブの前日に沼澤さんがやってたJ&Bというバンドのライブが札幌の小さなライブハウスであったのですが、そのライブの一発目のスネアの音がもう、頭に雷が落ちたくらいの衝撃で。ホール規模じゃないと観られないと思っていたミュージシャンを100人ぐらいのキャパのライブハウスで観るという経験……「なんだこれは?」と。あれでもう完全に沼澤オタクになりました。

――プレイヤーとしてはもちろん、自分のバンドもいろいろやりながら、サポートとしてもジャンル関係なく幅広くやる。そのあり方も結果的に受け継いでますよね。

伊吹:到底及ばないですけど、沼澤さんのスタイルにはずっと憧れています。というか、僕の好きなドラマーは自分のバンドを持っている人が多い。ポンタさんもPONTA BOXがあったし、玉田豊夢さんもC.C.Kingや小谷美紗子Trio、100s。柏倉隆史さんはtoeやthe HIATUS。もちろん(石若)駿もそうだし、そうやって自分のやりたいことをやっているドラマーが好きです。僕は「絶対に音楽で飯を食ってやるんだ!」みたいなタイプではないというか、音楽が好きで、音楽しかやってこなかったから、その結果として今仕事にさせてもらってると思っているので、自分でやってるバンドに関しては特に思い入れが強い。友達とスタジオに入って最高に楽しいねっていう、今もその延長でやっています。

尊敬できる音楽仲間との出会い “人との繋がり”でたどり着いた現在地

撮影=林直幸

――洗足学園音楽大学に進んだのも、仕事にするためというよりは“好き”の延長?

伊吹:そうですね。中学のときのキーボードの先輩が、「洗足音大っていうのがあって、そこの先生は伊吹の好きなミュージシャンが多いんじゃない?」って教えてくれて。調べてみたら、J&Bのギターの梶原順さんがいたんです。「順さんにアンサンブルを習えるんだったら行きたい」と親に相談して、無理をいって行かせてもらいました。

――音大ではジャズコースだったわけですけど、それまではジャズをやっていたわけではないですよね?

伊吹:全くやってなかったですね。高校のときにやっていたバンドは自主制作CDを作るくらい割と本気でやっていたので、ジャズセッションどころかスウィングも全然叩いたことがない。大学受験のために、初めてスウィングを叩いたぐらいの感じでした。ジャズコースに行ってたから、たまに地元の新聞に「ジャズドラマー」と書かれることがあるんですけど、自分では口が裂けてもそんなこと言えないです(笑)。

――自分が何かのジャンルのドラマーだ、みたいな意識はない?

伊吹:それはずっとなくありたいというか、“ただのドラマー”、“ジャストドラマー”でいられたらなと思っています。今はジャズ作曲家の挾間美帆さんに呼んでいただくこともあって、大変ありがたいし、やりがいしかない、曲が難しすぎていつも知恵熱出しながら演奏してるんですけど(笑)。それでもやっぱり「自分はジャズをやってます」とは言ったことはない。ただ、呼んでいただいたら自分のスタイルで頑張る、もちろんもっと勉強しなきゃいけないとは思ってますが。

――大学在学中にプロとしてのキャリアをスタートさせたそうですね。

伊吹:最初に声をかけてもらったのは学校の先生たちです。梶原順さんのツアーにベースの山本連と参加したり。あと、アレックス・シピアギンというジャズトランペッターが来日してセッションライブをやるときに、大学の先生だったベーシストの岡田治郎さんが呼んでくれて。それこそ、今狭間さんのところで一緒のサックスの庵原良司さんも(そのなかのメンバーに)いたんですけど、当時の僕はあまりにもジャズを知らなすぎて、アレックスから「お前はとりあえずいい感じにファンクをずっと叩いてれば大丈夫だから」みたいに言われたのを覚えてますね。

――ジャンルを規定はしないけれども、ファンクはやはり得意ジャンル?

伊吹:ファンクは好きですね。やっぱり沼澤さんの影響が大きいのかな。手や顔の角度まで完コピすることを目指していた時期もありましたから(笑)。だからファンキーなもの、16ビート系のものは今も特に大好きです。

撮影=林直幸

――活動の幅が広がっていったのも、やはり音大でのつながりが大きいですか?

伊吹:LAGHEADSの山本連、モノンクルの吉田沙良、SANABAGUN.の澤村一平などが同期で、高木大丈夫や、小西遼、トランペットの佐瀬悠輔、コーラスの佐々木詩織などが学年的に被っています。彼らには音楽的なことも色々教えてもらったし、今も共演することが多いのであのとき出会えてなかったら僕は今どうなっていたんだろうと考えることも多いです。在学中にバンドも2つ始めて、ひとつはメガネブラザース、もうひとつはO.P.P.A.I.(現OOPS! PIG PALE ALE INC.)。O.P.P.A.I.はSMTKとの対バン以来、4年くらいライブをやれていないですが、結成当時の僕は毎年『フジロック』(『FUJI ROCK FESTIVAL』)に行って、テントに4泊して最初から最後まで全部観る、みたいな、フェス文化にすごくかぶれてた時期で(笑)。その頃にいちばん衝撃だったのがDEERHOOFで、あとはBattlesとか、NATSUMEN、もちろんtoeも大好きだし、そういうエクスペリメンタルな音楽に憧れて始めたのがO.P.P.A.I.です。

――ちなみに、O.P.P.A.I.っていう名前は伊吹さんがつけたんですか?

伊吹:そうです。好きなので。一応自分としては、DC/PRGを意識して頭文字を付けたんですけど(笑)。このバンドのメンバーは初代ベースが大学の先輩だったSuchmosのHSUで、ギターが小金丸慧と竹之内一彌、サックスがMELRAW、キーボードが井上薫、あとは今OLをしている女子2人が歌とおもちゃ担当っていうヘンテコなバンドなんですけど。ある日、僕がサポートする前のモノンクルが対バンに誘ってくれたんですよ。モノンクルは1stアルバムをすりきれるほど聴いていたし、「自分はこんなすごいやつと同級生なのか」みたいな感じでずっと尊敬していて。その対バンをした頃はもうHSUはSuchmosで忙しくて、サポートで入ってくれていたのがKing Gnuの新井和輝でした。

 その後、モノンクルはアルバム『世界はここにしかないって上手に言って』を制作して、前作よりもポップス色が強くなり、レコーディングに誘ってくれました。僕と駿とFUYUさんの3人のドラマーが参加してるアルバムなんですけど、そこからモノンクルのライブサポートもやるようになりました。そこで、今LAGHEADSを一緒にやってる小川翔と宮川純に出会うんです。そのメンバーで年間4、50本ライブをやってたので、そこからさらに交友関係が広がっていって。

撮影=Yuuki Oishi

――そのライブを観ていた人から「うちでも叩いてくれない?」みたいな。

伊吹:だんだん増えていきましたね。モノンクルがBLUE NOTE TOKYOで初めてやったとき、Ovallの関口シンゴさんと初めてご一緒したんですけど、その直後にシンゴさんがアレンジで関わったあいみょんの曲のレコーディングがあって、そこに僕を呼んでくれたんです。ちょうどあいみょんが「マリーゴールド」をリリースした直後かな。

――それをきっかけに、その後にあいみょんのライブのサポートもやるようになるわけですね。やっぱり、モノンクルはきっかけとしてかなり大きいですね。

伊吹:モノンクルが対バンに誘ってくれて、そこからいろんなことに繋がったのは事実で、あのとき自分のバンドをやっていて本当によかったなと思いますね。O.P.P.A.I.は自分の音楽活動の中でもいちばんぶっ叩きまくれる場所で、「こいつらアホだなと思われたい!」みたいな感じでやってるんで(笑)。それでモノンクルに呼ばれたのも大丈夫なのか心配でしたけど……。

――「何でも器用にやってくれる」ではなくて、「この人に叩いてもらいたい」だったからこそ、サポートであっても魅力が伝播していったように思います。

伊吹:そうだとしたら、やっぱりバンドって最高ですね。どのバンドも細々とですが長く続けたい。今年はメガネブラザースでニューアルバムを発売して、初の全国ツアーを行います。

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