仲井戸“CHABO”麗市:古井戸、RC、麗蘭…ギターを弾き歌うことで紡がれた出会い 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.2
1960年代の新宿で芽生えたロックの衝動
新宿生まれ新宿育ち。中学2年生でThe Beatlesはじめリバプールサウンドに夢中になり、やがてブルースやソウルミュージックにも傾倒していく。それは音楽が魅力的だっただけでなく、その音楽が発するエネルギーや、それを通じて感じる時代を変える熱量といったもののせいではなかったか。
「The Beatlesと出会ってさ、音楽的魅力はもちろん、『髪伸ばしていいんだ!』とか『ズボン細くていいんだ!』とか、『大人の言うこと聞かなくていいんだ!』とか、そういうこと。価値観をひっくり返してくれた。今ではそんなこんな、わかったようなことを言えるけど、当時は強烈な何かを浴びたんだろうね。『Yeah! Year!』って歌うだけで」
1950年代のロックンロールも若者のエネルギーを解放する力を持っていたけれど、60年代のロックはさらに大きな価値観の変革を世界中で起こしていた。アメリカで人種差別に反対する公民権運動が起こり、ベトナム戦争の激化が世代間の対立を浮き上がらせた。こうした問題へのメッセージを歌にするアーティストが増えたのは自然なことだった。音楽を通じて、そうした価値観やセンスを吸収したのがCHABOたちの世代だ。そして中学3年生で自分のギターを手に入れ音楽を作り始める。
「隣のカッちゃんが先に作り出した。『すごいな、カッちゃん自分で作るんだ!』『俺も自分で作ればいいんだ!』ってね」
バンドを組んでも学校ではロックは禁止されている。でもロックに夢中になって大人の言うことなど馬耳東風となれば学校なんて行ってる場合じゃない。高校に進むとCHABOは学校をサボって新宿の繁華街を徘徊するようになった。
「伊勢丹や小田急百貨店のレコード売り場、コタニ楽器店、紀ノ国屋、映画館にもぐりこんで、おじさんに『またうろついてんのか』とか言われて。行くところはそれぐらいしかないんだよ。あとは花園神社。学校にも家にも、もしかしたら友達関係にも、いる場所がない。でも、そういうところで、知らない大人に触れ合ったりとか。その中には『今思うととても魅力的で進んでた人だな』と思う人がいたり」
そんな自分を「不良だった」と言うが、「不良と言ったってカツアゲとか喧嘩するようなヤツじゃなくて、俺の言う不良は、世の中から見ると不良品、学校で見ると落ちこぼれで、どこにいても成り立たない品物みたいなニュアンスかな」
古井戸でレコードデビュー “似た者同士”だった清志郎とも接近
新宿から国立にある桐朋高等学校に通学する大変さも、学校との心理的な距離を大きくしたのではなかろうか。駅から学校へ向かう際、大半の生徒は右側の歩道を進むのだが、CHABOは左側の歩道を歩いたと『だんだんわかった』に書いている。それは小さな、しかし頑なな意思表示だったのだろう。バンドで学園祭にも出たが、教師からは目をつけられた。なんとか高校を出てデザインスクールに通っている時に、後に古井戸を組む加奈崎芳太郎と出会った。古井戸というバンド名は、CHABOが高校で組んだバンド Fluid(流体・液体)を引き継いだものだ。当初は4人編成だったが、ライブハウスに出演したり演劇の音楽を担当したりするうちに加奈崎とのデュオになり、泉谷しげると出会って一緒に『唄の市』というコンサートサークルを始めた。そのライブ録音盤『唄の市 第一集』(1971年)がELEC RECORDSからリリースされたのがレコードデビューとなった。
その当時に古井戸を観た記憶がある。椅子に座って張りのある声で歌う加奈崎と、その斜め後ろに立ってギターを弾くCHABOは印象的だった。古井戸のレパートリーにはCHABOの書いた曲も多く、「ろくでなし」「何とかなれ」といった斜に構えて怒りを発散する曲があるが、「ポスターカラー」「花言葉」などは繊細な彼を感じさせる。ヒットした「さなえちゃん」も彼の作だ。RCサクセションの「ぼくの好きな先生」と並ぶスクールデイズラブソングだが、その成功がCHABOにとって面倒なものでもあった。
「あれは(忌野)清志郎と俺にある似た質感の何か。俺はそれを古井戸で発表したのが、ちょっと世の中で話題になって、TVに出されちゃう。状況はまあわかってるのに、俺はやだなあという気分を溜めちゃってドカーン! と切れちゃうタイプだから、本番とかいろいろ問題起こしてそのまま帰っちゃって。当時のディレクターとかクビになったりしたんじゃないかなあ?」
「こんな歌なんか歌えない」と生放送番組『リブ・ヤング!』(フジテレビ系)のスタジオを出てしまったという逸話。私の知る温厚なCHABOからは想像できないが、そういう一面もあるらしい。正面切って論争するようなことができない性格ゆえの、もどかしさが態度となって爆発する。子供っぽいとも言えるが、自分の中の譲れないものは絶対に譲らない、そんな頑なさは彼の曲にも感じられる。そして、そんなところが忌野清志郎と似ている。同じライブハウスに出演して、RCサクセションと古井戸は親しくなっていく。
「渋谷の“青い森”。当時の景色が鮮明に浮かぶよ。清志郎がアーミージャケット着てバッシュ履いて元気よく入ってくる感じ。あいつ国立住まいだから渋谷で遅くまで仕事やると帰れないから、ウチに『泊めて』って来るようになった。『オバさんこんにちは!』ってコーラ持って来る。その時に、聞いてないのに自分のことを話し出したよ。複雑な生まれた環境、それをまず話し出した。それで俺の反応を見たかったのかな。俺は俺でティーンエイジャーの頃、ちょっとおかしくなってた体験してるから、この子とは友達になれるかなって。そういうことが始まりだった。清志郎が何かに書いてた、『CHABOと僕は、してきたことが似てるんだ』って。1人の女の子を好きになったこともあった(笑)。こっちはこっちで世の中に混ざれないような感じだからさ、何か気が合ったんだろうな」
RCサクセション正式加入 “うなぎ登り”なライブを作り上げていたもの
清志郎が幼少期に家庭の事情で養子に出されたことは後に知られることになる。この頃のRCサクセションは破廉ケンチが脱退しライブ活動もままならない不遇の時代だったが、CHABOは古井戸の活動を続けながらRCサクセションに接近していく。やがてRCがドラムやエレキベースを入れ新たなバンドサウンドを模索し始めると、CHABOもエレキギターを弾いて、新井田耕造(Dr/Cho)と小川銀次(Gt)を迎えた新生RCサクセションを手伝うようになった。2008年に取材した時には、「その頃のRCは銀次とツインギターで、銀次はクロスオーバー的なギターを弾くから俺はリズムギター。スティーヴ・クロッパーさんを目指してね。その難しさも痛感しつつ、バンド小僧としての無邪気な楽しさがあった。ギターもギブソンよりフェンダー系がリズムギターに合うなとか、そういうことにも興味が湧いた」と語ってくれた。
私がRCサクセションを“再発見”したのが1979年の日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)公演。それからまもなく小川が抜け、CHABOはRCサクセションのギタリストとして活動するのだが、古井戸も続けていた。
「俺はご承知のように、パッと決められないから。清志郎と仲良くなって、間違いなくそっちに行っちゃうだろうなと思ってたけど、加奈崎さんとの関係もあるし、間に入ってくれるマネージャーもすごくいい人だったし。簡単には行かなかった」
1979年11月16日、虎ノ門にあった久保講堂で古井戸は最後のライブを行い、その音源は『ラスト・ステージ』としてリリースされた。今なら(当時でも本来なら)許されないことだが、ホールの通路までびっしり観客が入り、とてつもない熱気の中で行われたライブだった。そしてCHABOはRCサクセションに正式加入した。
RCサクセションはその年の7月にシングル『ステップ!』を出し、廃盤になっていた3rdアルバム『シングル・マン』(1976年)再発運動が起こって注目を集め始めていた。渋谷のライブハウス 屋根裏で毎月のようにライブを行っていくうちに、2Days、3Daysと動員を増やしていくのを見るのは本当にワクワクした。清志郎とCHABOが「雨あがりの夜空に」を作ったのはこの頃だ。新曲をどんどん作り、メイクやカラフルな衣装、ステージでの動きなどに磨きをかけて演奏した。ライブアルバム『RHAPSODY』(1980年)に収録された久保講堂、その後は渋谷公会堂、日比谷野音、日本武道館とうなぎ登り。CHABOも清志郎も、RCのメンバーたちも最高に充実した時間を過ごしていたと思う。
ライブが終わればイベンターが打ち上げを用意して開放感を味わう、というのが普通だが、RCの場合は違った。地方公演に取材で入って知ったのだが、彼らはライブが終わると打ち上げもそこそこにホテルに入り、清志郎の部屋に集まってその日のライブを録画したビデオ(それ以前はカセットテープだった)を何回も観ているのだ。
「あれは義務感で観てたんじゃない。自分がどんなプレイをしたかとか、本当に観たくて。毎晩観てた。とても大きかったと思う。その日のステージングで、清志郎は自分の動きを研究したりとか、俺ならアイツとどういう風に絡むとか」
それを翌日のステージに反映させて日々ブラッシュアップしていく。その繰り返しだったのだろう。そうしたことが、彼らのライブを他に類を見ないものにしていったのだと思う。だからこそ一度観たら取り憑かれるようなライブで人気を高めていったのだ。
RCの活動休止と麗蘭結成 「公平との出会いは、偶然のようで必然だった」
清志郎と坂本龍一の「い・け・な・い ルージュマジック」(1982年)、三菱自動車 ミラージュのCM曲である「ベイビー!逃げるんだ。」(1983年)など話題曲が続き、バンドの人気は高まる一方だったが、曲を作りアルバムを作りライブで演奏する、といったシンプルな活動以外のことが増えるにつれ、バンド内には隙間風が吹くようになる。特にCHABOにとっては辛い時期になった。
「俺が問題児だったと思う。スタッフも清志郎も大きくなりたいわけだから。CMのいい話がきたらみんな喜んでやるのに、拒否しちゃうヤツがいるわけだから。今思えば清志郎、大変だったと思う」
レコード会社の移籍に事務所の独立と、めまぐるしい環境の変化もバンドの負担だったのではなかろうか。1985年、CHABOは初ソロ作『THE 仲井戸麗市 BOOK』を作った。吐き出さずにはいられなかった。
「いろいろ溜まりに溜まってたからね。基本的なフィーリングはティーンエイジャーから引 きずってきた怒りみたいなものだった。1回吐き出さないとって。ギタリストの端くれとしては、RCでは清志郎の横でギターを弾いていれば、90%満足で楽しくてやりがいがあった。そういうところを目指してたしね。でも曲を書きたいヤツとしては、一緒に価値観を共有できていたのが、『そうかな?』みたいなことも出てくる。(ソロ作を作って)それなりの開放感はあったけど、バンドは難しいなって思えちゃった。清志郎は心中穏やかじゃなかったと思うけど、俺のソロの渋谷公会堂(1985年)の時にアイツ来て、コーラスやってくれたりしたけどね」
CHABOは自分が元凶のように言うが、もしかしたら他のメンバーも同じようなことを感じていたのかもしれない。私も単純にRCサクセションの曲やライブやメンバーが大好きというだけだったから、バンドを取り巻く状況の急激な変化に違和感を覚えていたものだ。RCは順調に活動を続けていたが、清志郎が歌詞を変えて反原発を歌った「ラヴ・ミー・テンダー」などを含む『COVERS』(1988年)の発売中止事件がバンドの足並みを乱すことになった。1990年末の日本武道館公演を最後に、RCサクセションは活動を休止する。
CHABOはソロ2作目のアルバム『絵』(1990年)をリリース、また活動休止中だったTHE STREET SLIDERSの土屋公平(蘭丸)と麗蘭を組んだ。THE STREET SLIDERSもデビュー当時から取材していたバンドだが、2人の邂逅は奇跡のように思えたものだ。けれどライブを観れば瞬時に2人の出会いは腑に落ちた。
「公平との出会いは、偶然のようで必然だったと思う。基本的な質感が共通してる」
当初は両者が所属するレコード会社も、事務所も違うからライブだけ行う予定だったが、レコーディングすることになった。東芝EMIの邦楽制作のトップだった石坂敬一氏が、ツアー先の札幌にやってきたのだ。
「喫茶店で会って、ひとしきりジェフ・ベック論を語って、レコーディングしましょうって。伝票をサッと取って出てった(笑)」
1stアルバム『麗蘭』(1991年)から2作目『SOSが鳴ってる』(2004年)、3作目『25』(2016年)と活動は不定期だが今も続いており、35年目を迎えた。CHABOにとって最も長く続いているバンドになっている。
「お互いの時間が合う時にやろうねって、それがよかったんじゃないかな。日本のロック畑でとりわけ扱いにくい俺とスライダーズのHARRY、その両方とやってるんだから、公平はすごいよね(笑)」
若き日を俯瞰できる素晴らしさ 「清志郎もいたらすごく面白かっただろうな」
CHABOのソロも形を変えながら続いていて、多作とは言えないが途切れずリリースしているし、ライブにDJ、ポエトリーリーディングと表現の形も広がっている。言葉とメロディを紡ぐこと、それを自分で表現すること、ギターを弾き歌うこと。それがCHABOのやりたいことだ。
「曲を書くのは大変。特に詞はそんなに出てくるものじゃないから。何か物語を設定して書くようなタイプのソングライターじゃないし、自分のエクスペリエンスから発想して書くようなタイプだから、曲作りはなかなかのプレッシャー」
こんな話をしているうちにCHABOが言った。
「RCが止まったら、清志郎とはずいぶん距離ができた。でも俺と清志郎は、やっぱりRCサクセション。だからこういう話を、(清志郎が)生きてたらたくさんしたかもしれない。『あの時、お前が最低だったからよ〜』『何言ってんだよ』とか、笑って。でもあの頃も普段は仲良かったんだよ。特に清志郎に息子の竜平が生まれてから、俺は竜平が可愛くて、全部“飛んじゃった”。竜平に会いたくて、アイツのところに行った。『お前に会いにきたんじゃねえ』って。不思議な感じだったな、清志郎の分身がいるって」
“清志郎の分身”でもある竜平くんに、自分の純粋な思いを向けていたのかもしれない。“竜平に会いにいく”というのは口実だったのかもしれない、とも思う。
「今こうしていろいろ聞かれて話して、自分の若い頃を俯瞰して見れる。清志郎もいたら、アイツもそういう感じになってて、すごく面白かっただろうな。それができない悔しさ、無念さ。すごく振り返るよ。過去ばっかり見てるとネガティブなイメージに捉えられがちだけど、いいことのような気もする。清志郎との関係だけじゃなくて、自分のことも、公平との出会いとかもね」
取材を通じて長く関係を培ってこれた相手からこんな話を聞くことができるのが、この仕事を続けてきてよかったと思う瞬間だ。