ヨルシカはなぜ“夏”を歌うのか? 季節を直接的に描かない、秀逸な表現
初期のミニアルバム『夏草が邪魔をする』から振り返っていこう。コンセプチュアルな本作は、2017年6月28日発売の1stミニアルバム。タイトルに夏の季語である『夏草』を冠し、全8曲の収録のなかで、ほぼずべての曲において夏をイメージさせるワードが内包されている。1曲目の「夏陰、ピアノを弾く」のピアノの旋律からも感じ取れる、空の青さや爽やかな風。しかし、どこか切なさをはらんだサウンドメイクは、彼ら特有のものなのではないだろうか。そして、本作は夏を直接的に匂わせない、季語を使った表現も素晴らしい。
たとえば、「言って。」では〈牡丹は散っても花だ〉と〈牡丹〉という初夏の季語を用い、夏を感じさせ、「あの夏に咲け」では〈いつもの通りバス停で、/君はサイダーを持っていた。〉〈君の流した水滴が夕立ちみたく伝っていた〉のように〈サイダー〉や〈夕立ち〉などの季語を用いている。
そして、その後にリリースされたヨルシカの代表曲とも言える「ただ君に晴れ」、「花に亡霊」、「ヒッチコック」、「雨とカプチーノ」にも夏を表現した歌詞が頻出している。
「ただ君に晴れ」
〈鳥居 乾いた雲 夏の匂いが頬を撫でる〉
〈遊び疲れたらバス停裏で空でも見よう/じきに夏が暮れても/きっときっと覚えているから〉
「花に亡霊」
〈言葉をもっと教えて 夏が来るって教えて〉
〈僕は描いている 眼に映ったのは夏の亡霊だ〉
「ヒッチコック」
〈夏が近づくと胸が騒めくのは何でなんでしょうか。〉
〈ただ夏の匂いに目を瞑って、/雲の高さを指で描こう。〉
「雨とカプチーノ」
〈八月のヴィスビー 潮騒/待ちぼうけ 海風一つで〉
〈夏泳いだ花の白さ、宵の雨〉
こうしてヨルシカの歌う夏を振り返ってみると、n-bunaは夏に“切なさ”や“儚さ”を人一倍感じているのではないだろうか。いわば、夏のパブリックイメージである、明るい/キラキラとの対比。夏という限られた時期に起きる、事象。それは、一夏の恋であり、急に降りしきる夕立ちであり、夏特有の香りや風。その時にしか出会うことのできない思い出と、それに付随する切ない感情や特別な思い出を“夏”という季節から想起し、n-bunaならではの筆致とsuisの透き通った声で表現する。
夏や夏の季語に続く言葉は、〈亡霊〉や〈待ちぼうけ〉、〈目を瞑る〉など、決して明るい言葉ではないことからも、n-bunaが夏に切なく儚い感情を抱いているように思える。その切なさや儚さを音楽として昇華させ、それがリスナーの日常や感情とリンクしているのではないだろうか。
日本には、春夏秋冬、四季折々の季節がある。春には桜が咲き、夏には花火、秋には紅葉、冬には雪景色、普段は気に留めることもなく進んでいく日常ではあるが、きっと思い返せば、季節それぞれにさまざまな感情がある。出会いや別れ、新たな一歩、そんなリスナーの思い出と寄り添い、ともに歩んでくれるのが、ヨルシカの音楽なのだろう。彼らの歌い奏でる夏に今一度触れ、n-bunaが提示する切なさや儚さを感じ取ってみてはいかがだろうか。
※1:https://realsound.jp/2025/01/post-1896864.html
※2:https://natalie.mu/music/pp/yorushika/page/2

























