NEE、くぅを失った悲しみを受け入れて始める物語 ソールドアウトで“爆破”させた日比谷野音公演

NEE、日比谷野音公演レポ

 ライブの最後、エンディングSEとして流れた「帰りの会」を聴いて、ようやく、くぅ(Gt/Vo)とお別れができたような気がした。いや、「お別れ」というのとは少し違う。くぅが今ここに肉体としては存在していないということをやっと受け入れられたというか、ライブの中でかほ(Ba)が言っていたように「生きていることと生きていないことってそんなに変わらないんだなって思った」という感覚がわかったというか、そういう不思議な体験だった。6月23日、雨が降り注ぐ日比谷野外大音楽堂で開催されたNEEのワンマンライブ『東京、夏のサイレン』。それはいつものライブとは何もかもが違っていたが、くぅが生み出した音楽が力強く鳴り続いたその時間の中には、悲しみや失望と同じくらい、喜びや未来への希望や愛があった。本当にすばらしいライブだった。

 ファンならば知ってのとおり、この『東京、夏のサイレン』は5月にくぅが急逝したことを受けて、他のライブと同じように一度は中止がアナウンスされていたものだ。しかしその後、メンバーやくぅの親族、そしてスタッフによる話し合いによって急遽開催されることになった。そこにどれほどの葛藤があったのか、今日この日に辿り着くまでに夕日(Gt)、かほ、大樹(Dr)の3人はどれだけのものを乗り越えなければならなかったのか、想像を絶するものがある。それは野音に集ったたくさんのファンたちも同じだろう。このライブはYouTubeでも生配信され、画面越しにでも多くの人が観ていた。彼らもきっと、このライブに向き合うには勇気や意志が必要だったことと思う。

 そうした多くの人の気持ちが重なったからかもしれないが、野音では開演直前から雨が降り出した。こういうのをきっと“涙雨”というのだろう。じつは筆者ですら、このライブにどんな気持ちで向かえばいいのか、ギリギリまで整理できずにいた。自分の中のNEEの記憶を、くぅがいたときのままで封じ込めておきたいという気持ちも正直あった。だが、野音に入り、ステージを見た瞬間、それは間違いだったと気づいた。バンド名が染め抜かれたバックドロップ、その左右にある「一揆」という文字が書かれた幕、そしてその下に置かれた楽器たち。真ん中にはちゃんと、くぅが使っていたギターやアンプがあった。そのセッティングが、くぅがいなくなったとしてもNEEはNEEとしてそこにいる、という宣言のように思えた。そうか、これはくぅを失った悲しみを持ち寄るだけの場ではないんだ、とそのステージを見て思ったのだ。

 「今日はとにかく、あいつが愛してやまなかったNEEというバンドと、愛してやまなかったNEEのファンのみなさん、みんなであいつがいちばん愛してた最高のライブをしたいと思います」。ステージに登場した夕日のそんな言葉から始まったライブ。「ばっどくらい」から始まった前半は、ライブ音源のくぅのボーカルを3人の生演奏に合わせるというスタイルで披露された。「アウトバーン」に「本日の正体」――声はするのに姿が見えない、その事実が今さらながらその不在を実感させる。逝去の報せを聞いてから1カ月、ずっとふわふわした感じだった気持ちに残酷にも実体が与えられていくようなその感覚は、くぅの声で歌われる楽曲が重なるたびに、強く心を締め付けていった。しかしそれはこの場にいる全員にとって必要なことだったのだ。くぅの不在を受け止め、その厳然たる現実とともに歩んでいくことを決意する――それがこの『東京、夏のサイレン』というライブの意味だったのだと、終わってみて思う。

 「本日の正体」を終え、3人は距離を縮めながらジャムセッションを始めた。まるでNEEはここで今も命を燃やし続けていると、自分たちで確かめ、証明するように。そしてくぅ存命中最後のリリースとなった「一揆」へ。客席ではタオルが振り回され、野音がぎゅっとひとつになる。3人が鳴らす力強い音があって、それを全身で受け止めるオーディエンスがいる。その揺るぎないリアルが、それまでの悲しみと失望とは違う感情を湧き上がらせてくる。その後のMCで夕日はくぅのせいで「停電したり、雷が落ちてきたり、火事になったりするかもしれない」と冗談混じりに言いながら、強い口調で「絶対に誰も死んじゃいけないからね、今日は」とオーディエンスに語りかけた。そう、このライブはNEEというバンドが、くぅを愛した一人ひとりが、一緒に生きていくための日なのだ。そしてここからライブは、まさに“ここから生きていく”NEEの姿を見せつけていくことになる。

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