二見颯一、セルフプロデュース手がける演歌第7世代 挑戦し続けたデビュー5周年を振り返る
令和元年にあたる2019年にデビュー、辰巳ゆうと、新浜レオン、青山新、彩青と共に「演歌第7世代」の一角として話題を集め、2021年には『第35回日本ゴールドディスク大賞』で「ベスト・演歌/歌謡曲・ニュー・アーティスト」を受賞するなど頭角を現してきた二見颯一。
歌はもちろん、衣装デザイン、イラストや絵画など多方面で才能を発揮し、バンド経験も持つという。二見颯一の幅広い才能に着目しながら、最新シングル『罪の恋』について、そして“やまびこボイス”の謎についてなど話を聞いた。(榑林 史章)
歌を磨き続けた少年時代、バンドの結成、そしてデビューへ
――今年はデビュー5周年イヤーでしたが、どんな1年でしたか?
二見颯一(以下、二見):2019年3月6日にデビューして、今年の3月から5周年に向けていろいろな活動をしてきました。何をするにしても“5周年記念”という言葉がついて、僕自身も「いつもと違うことをやりたい」という意識がありましたけど、事務所やレコード会社のスタッフさんなど、周りの方々の気合いも大きい一年でした。この5年であたためてきたことをたくさん叶えることができた一年だったと思います。
――2年目、3年目とはやはり違いましたか?
二見:はい。僕の2年目、3年目はコロナ禍ど真ん中でまったくライブができなかったので、あの時に発散できなかったエネルギーを存分に発散しようと掲げてやってきたのがこの一年でしたね。
――世のなかの状況が刻々と変化した5年でしたが、その過程で二見さんの心境はどのように変化しましたか?
二見:別人になったくらい変わりましたね。デビューした当時はまだ大学生だったのもあって、いろいろな道をまだ考えることができたんです。歌の道でデビューしたけれど、通っていた大学では歌とはまったく関係のないことを勉強していたので、行政の仕事に就く道に行くかもしれない可能性もあって。でも、そこからコロナ禍になり、歌のお仕事も機会が減ってしまって、その代わりに絵の仕事を始めたんです。歌手なのに絵の仕事のほうが多いという日々が続いて、「このまま絵の仕事をやっていくのかな?」と考えた時もあって。結果、3つの分かれ道がある状態だったんです。それが、5年目にもなると歌手の後輩も出てくるし、周りで支えてくれるスタッフさんの数も増えて、“歌手”という仕事の責任感が大きくなり、“歌手”の道をしっかりと全うしようという気持ちになりました。デビューしてすぐの頃は道に迷ってフラフラしていたけれど、5年経った今は本軸を歌に置いて、100%で仕事に打ち込めるようになりました。
――ご両親はなんとおっしゃっていましたか?
二見:両親をはじめ僕の近しい人たちは、歌をやるだろうと。大学へ行く時にも、高校の先生からは音楽系の大学をすすめられていたのですが、大学ではしっかりとした勉強をしたいと思ったので、音大には行きませんでした。だからデビュー前は、周りからは歌手の道へと導かれていたものの、僕がそれを避けてきた感じもありましたね。
――子どもの頃から歌がお好きだった?
二見:大好きでした。5歳から近所の方にすすめられて民謡を習っていたのですが、当時はいろいろな習い事をやっていて。他の習い事はイヤでよくサボっていたけど、民謡だけはサボらずに続けていたんです。きっと歌うことがその頃から楽しかったんだと思います。それに、両親が共働きでひとりっ子だったので、家でよくひとりで歌っていました。民謡に限らずジャンルとか関係なく、気に入ったメロディがあれば、すぐ口ずさんで歌っていましたね。テレビから流れるCMソングとか、いわゆるJ-POPとか、なんでも。
――家族でどなたか音楽をやっている方がいたり?
二見:いえ、音楽一家ではありませんでした。だから家族も、「なんでこの子はこんなに歌が好きなんだろう?」「でも楽しそうだから歌わせてあげよう」という感じで受け入れてくれていました。5歳で民謡を習い始めて、小学生になると民謡の大会に出るようになると、自分の歌に点数がつくわけですよね。そうなると、より高い点数を目指して歌を極めるという方向にも気持ちが向きました。ただ楽しいだけではなく、歌の精度をどんどん上げていこう、と。それで小学生の時に宮崎県で1位になり、それ以降は毎年全国大会に出るようになりました。
中学1年生の時にはバンドを組んで、僕は6年間ボーカルを担当していました。だから常に音楽は身の回りにあったし、家の周りには何もない田舎だったので、外でも大声で歌い放題で(笑)。宮崎にいる時は、音楽のことしか考えていませんでしたね。
――どういうバンドだったんですか?
二見:4人編成のアコースティックバンドで、僕がボーカルで、あとはアコースティックギター、クラシックピアノ、ドラムというちょっと変わった編成でした。アコースティックギターが響いている楽曲を選んで、ゆずさん、玉置浩二さん、スキマスイッチさんなどのコピーをしていましたね。当時は民謡から離れていたわけではないけど、バンド活動が楽しくて。その6年間で、民謡/演歌以外のジャンルの音楽を知っていきました。当時のメンバーはそれぞれやりたいことが違ったので、卒業と同時にバラバラになりましたが、他のメンバーは学校の音楽の先生になったり、教室で楽器を教えていたり、音響の会社に入ったりと、結局みんな音楽の道に進んでいて。今も連絡を取り合っていて、コンサートにも来てくれます。
――先ほどコロナ禍で絵の仕事をするようになったとお話がありましたが、絵はどういうきっかけで始めたんですか?
二見:絵は歌よりも先に始めて描いていました。裏が白いチラシを集めて、よく絵を描いていましたね。ひとりっ子だったから、歌を歌うか絵を描くくらいしかやることもなくて。2、3歳から絵は描いていました。
――絵は作品によってタッチも様々ですね。
二見:基本はアクリル画で、抽象画が得意です。絵を本格的に始めたきっかけは、『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげる先生と『アンパンマン』のやなせたかし先生、『鉄人28号』や『三国志』の横山光輝先生の絵を小さい頃に見て、「すごい!」と思って模写したのが最初です。マンガ一冊を丸々全ページ模写したりして。
――水木しげるさんの絵は点描画みたいな感じで、とても細かいですよね。
二見:そうなんです。小さい頃にこども園に通っていたのですが、先生が僕の絵を面白がってくださって、いつも自由に絵を描かせてくれました。水木しげる先生の妖怪の絵をマネして描いていると、それを見て「怖い」「気持ち悪い」と言った子がいて。それが僕はすごくうれしくて、それから怖い絵をたくさん描くようになって、アクリル画などに挑戦するようになってからは今のようなタッチです。
――ちなみに好きな妖怪は?
二見:「朱の盆」です(笑)。水木しげる先生が描く妖怪はどれも人間味があって、妖怪なのに人を驚かせるのが苦手で、それに悩んでいたりするんです。そういう部分がすごく身近に感じられて、好きな妖怪のひとりですね。
――演歌/歌謡曲界にも妖怪のような方はたくさんいらっしゃいますよね(笑)。
二見:偉大なる先輩方です(笑)。
――二見さんはご自身の衣装もデザインされたりしているとのことですが。
二見:もともとデビューした時から、自分のオフィシャルグッズは必ず自分でデザインしていて。コロナ禍はマスク、定番のタオルやTシャツ、ハンカチ、キーホルダーなど、キャラクターのワンポイントやロゴを描いたりしています。最近はなぜかグッズでカレー粉も売り出していて、僕がカレーを食べているパッケージのイラストを描きました。
――カレーが好きなんですか?
二見:特にそういうわけではないんですけど(笑)。でも、食べてくださったファンの方からは美味しいと評判をいただいています。その延長線上で、スタッフから「いつか衣装もデザインしてみたら?」と言われていたところ、衣装をデザインすることになりました。今日着ている衣装は、正確にはスーツ用にデザインした柄ではなく、キャンバスに描いた絵だったんです。それをもとに、絵のどの部分をスーツのどこのパーツに当てはめるかを考えて、色や配置、生地などを全部決めさせてもらって。そこがスタートでした。
――波のような印象でしたけど、キャンバスに描いた時はどういう絵だったのですか?
二見:そもそも幾何学模様が好きなので、線だけで描いた自分なりの抽象的な絵だったんです。波とか海のイメージもあって、それは僕が生まれ育った宮崎のイメージです。
――『罪の恋』のCDジャケットで着ている総柄のスーツも?
二見:はい。デザインは違いますが、生地、柄、色、形を決めて、仕立てていただきました。衣装の色は、普段の自分が着たことのないものを選んでいて。写真だとブルーっぽく見えますが、実際は深い緑なんです。楽曲も「罪の恋」というタイトルで大人な感じなので、少しシックな深い緑を選びました。ネクタイも無理を言って同じ生地で作っていただいて。そういう衣装だからこそ、ステージもより気合いが入りますね。袖を通すと「よしっ!」とスイッチが入ります。