西城秀樹、大滝詠一ら支えたミュージシャン 稲垣次郎 90歳の視点で語る日本ジャズ史と海外からの評価

ピットインへの出入り禁止、そして西城秀樹やピンク・レディーのバックバンドへ

――稲垣さんは、『Head Rock』の頃にはサックスの吹き方は変えていたんですか?

稲垣:ジャズとはフレーズが全然違うんですよ。だから、ロックっぽいフレーズを吹こうかなと。ちょっとした意識ですよ。人によっては同じに聴こえるかもわからないけどね。ブーツ・ランドルフがロックっぽいフレーズとかサウンドを間奏で吹いていたんですよ。それからだいぶ経ってから、キング・カーティスも出てきたよね。

――いろいろ研究して、その吹き方になったと。

稲垣:研究はあまり実になっていないけどね(笑)。ソニー・スティットやコルトレーンの初期の時もそうなんだけど、割と、黒っぽい、R&Bっぽいグルーヴを持っているプレイヤーが好きだったんです。西条孝之介というサックス奏者と「俺は白人のサックスは聴かねえ!」「俺は黒人のサックスは聴かねえ!」と言い合って、お互いのレコードを交換したことがあるくらい。だから、ジャズをやっていたけど、モータウンやR&Bを好きで聴いていたから、ロックに移行していく下地はあったのかな。

――当時の日本でキング・カーティスをそんなに熱心に聴いていたジャズミュージシャンなんて他にいたんですか?

稲垣:いない。誰もいない。

――すごく珍しいですよね。

稲垣:珍しいよね。キング・カーティスは全然評価されていないから。

――日本で聴かれていないようなものを聴いていて、よく日本のシーンでやっていましたね。

稲垣:でも、そういう要望は結構あったからね。

――それはジャズからですか? ロックや歌謡曲からですか?

稲垣:当時、大滝詠一とか山下達郎のシュガーベイブの一派がアメリカでレコーディングしてたんですよ。はっぴいえんどの最後のアルバム『Happy End』(1973年)のテナーがトム・スコットでね。「ああいう風に吹く日本人はいないか?」と言ってきたのが大滝の一派だった。大滝がイメージしていたサックスはブーツ・ランドルフの系譜なんですよ。それをニューオーリンズっぽいサウンドに乗せて、サックスだけのホーンセクションものをやると。当時のスタジオミュージシャンのサックス奏者はみんなジャズ屋だったけど、大滝はジャズのプレイが欲しくない。ブーツ・ランドルフみたいな、ロックのサックスが吹ける人ということで指名された流れがあったんだよね。

稲垣次郎 90歳の現在

――たしかに、当時なかなかいないですもんね。

稲垣:その系統をやっていたのは村岡建。でも、いちばん上手かったのは、ジェイク・コンセプションだと思う。

――村岡さんとかジェイクさんとか、ポップスとかロックをやっているプレイヤーとは、交流があったんですね。でも、70年代頭だと、渡辺貞夫さんや日野皓正さんもエレクトリックのサウンドをやっていましたけど、彼らの周辺とは交流がありましたか?

稲垣:ないない。そもそも最初にジャズロックをやり始めた頃は、周りのミュージシャンから、あんなものは「ジャズじゃないだろう」「ロックじゃないだろう」と言われていて(笑)。それこそ、ピットイン(ジャズ喫茶クラブ)に出入り禁止になったし。大物の鶴の一言でね(笑)。その頃にロックをやっていたのは、ドラムの石川晶(とカウント・バッファローズ)と僕と増尾好秋。ピットインはずっとやっていたんだけど、ある大物が「あいつらがやっているのはジャズじゃないから入れないほうがいいよ」ってオーナーに言ったんだよ。それで、我々はクビになっちゃった(笑)。

――出入り禁止になる前は、ピットインでも『Head Rock』みたいなことはやっていたんですね。

稲垣:新宿の伊勢丹会館のほうの、まだ小さいピットインに出ていたね。

――ピットインを追い出されたあとはどこでやっていたんですか?

稲垣:そのあと、あまりライブハウスはやってなかった。73年くらいからスタジオの仕事がメインになったし、西城秀樹やピンク・レディーのバックバンドをやるようになったから、ライブハウスには出ていないけど、野音のジャズフェスとかには声がかかっていたの。あとは企画モノのイベントでライブをやるくらい。とにかく、あの頃はピンク・レディーと西城秀樹が忙しくて、他の仕事ができなかった。

――日本でもフライド・エッグやスピード・グルー&シンキみたいなプログレっぽいバンドもいたわけです。そういうバンドとは交流はなかったですか?

稲垣:ないね。その時期、ベルウッドだったりとか、エレックだったり、新興のレーベルに関わっているので、クニ河内さんとかと一緒にやったりはあったけど、スタジオミュージシャンとして参加することはあっても、一緒にやるような事はなかったね。プレイヤーで参加したのは、はっぴいえんどの解散コンサート以降の、大滝詠一のライブぐらい。

――なるほど。稲垣さんが自分のアルバムを作る際にロックらしさを形にするためには、どんなこだわりがあったんでしょうか?

稲垣:僕はレコーディングをほとんど変えたんですよ。沢田駿吾をクビにして、岡沢章や水谷公生をありとあらゆる録音に突っ込んだ。ロックの音がするミュージシャンをレコーディングで使うようにしてね。ロックはミュージシャンによるんですよ。こういうサウンドがほしいなという時は、高中正義にするか、川崎燎にするか、水谷公生にするか――プレイヤーに左右される。当時、ドラムは日本人ではなかなか難しかったから、ドラムとベースがいちばん嫌になっちゃったんだよ。もっとグルーヴしている音を出したいけど、R&Bっぽいグルーヴじゃなくて、みんながみんなレッド・ツェッペリンになっちゃう。ブリティッシュロックのブームだったからね。成毛滋なんか特にそうだけど、上手いんだけど、レッド・ツェッペリンになっちゃうんだよ。ピンク・レディーのラスベガス公演で、チャック・レイニーと一緒にやった縁で、チャック・レイニーが日本に来たときに一緒にレコードを作ったのが、稲垣次郎とチャック・レイニー・リズム・セクション『Blockbuster』。その時に「あ、これだ!」と。実はルイス・ジョンソンにリクエストを出していたんだけど、実現が難しくて。でも「チャック・レイニーだったらできるよ」と言われて、そうなったんだよね。

(後編へ続く)

▼インタビュー前編はこちら

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2000年代に起こった日本のジャズの掘り起こしと再評価により、日本のジャズロック史を築いたミュージシャンのひとり・稲垣次郎が注目…

■リリース情報
『WaJazz Legends: Jiro Inagaki - Selected by Yusuke Ogawa (Universounds)』
発売/配信中

配信リンク:https://inagaki.lnk.to/wajazzlegend
アナログ情報: https://www.hmv.co.jp/news/article/230707114/

品番:配信 COKM-44357/アナログ180GHMVLP03-GOLD
アナログフォーマット:ゴールド・ヴァイナル / 2枚組 / 180グラム重量盤 / ゲートフォールドジャケット仕様

<収録曲>
1. Head Rock / 稲垣次郎とソウル・メディア
2. Sniper's Snooze / 佐藤允彦、稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア
3. いなのめ / 稲垣次郎とソウル・メディア、沢田靖司
4. Breeze / 稲垣次郎とソウル・メディア
5. Freedom Jazz Dance / 稲垣次郎とソウル・ビッグ・メディア
6. By The Red Stream / 鈴木宏昌、稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア
7. Back Off Boogaloo / 稲垣次郎とソウル・メディア
8. 「オメルタの掟」のテーマ / 稲垣次郎とソウル・メディア
9. Twenty One / 稲垣次郎とソウル・メディア
10. 女友達(Wandering Birds) / 稲垣次郎とソウル・メディア、サミー
11. That's How I Feel / 稲垣次郎とソウル・メディア
12. Memory Lane /ソウル・メディア
13. Barock / 前田憲男=稲垣次郎オール・スターズ
14. Guru / 佐藤允彦、稲垣次郎とビッグ・ソウル・メディア
15. Painted Paradise / 稲垣次郎とソウル・メディア
16. Express / 稲垣次郎&ヒズ・フレンズ

稲垣次郎 日本コロムビア アーティストページ:https://columbia.jp/artist-info/inagakijiro/

▼【J-DIGS】稲垣次郎とソウルメディアを聴こう

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