【浜田麻里 40周年インタビュー】第2弾:制作拠点をアメリカへ移した意図とは? 現地での刺激的なセッション、ヒットシングル誕生などを振り返る

リスナー層拡大の契機となった「Return to Myself」「Heart and Soul」誕生

――2度目のLA録音となった『LOVE NEVER TURNS AGAINST』は、どんな作品でした?

『LOVE NEVER TURNS AGAINST』

浜田:気に入ってるアルバムですね。本当はマイク・クリンクでもう1枚制作しようという話だったんです。アレンジャーはデイヴィッド・フォスターで。けどマイクは、Guns N' Rosesが爆発的に売れたことで忙しくなってしまって、結果的に前みたいにベッタリとつけずで。すでにマイクの自宅は、エーカー単位の広さの大邸宅になっていました(笑)。それで、マイクのサポートエンジニアだったグレッグ・エドワードに、実質的には交代したんです。

 デイヴィッドは、日本の有名なプロジェクトのスケジュールが押してきて、結果的に取られてしまいました。小規模プロジェクトの私とは予算が違いすぎて。デイヴィッドの代わりは当時の弟子のトム・キーンで、そこからアルバム5枚ほど、グレッグと密になって制作する時代に入っていきました。グレッグの音作りは、日本人のリスナーの耳には少し弾けた感じの明るいものになり、結果としてそれが功を奏しましたね。グレッグとのコラボ作は、ポップ期の大ヒットアルバムとなりました。曲のクオリティもやっとのこと、上がり出した気がします(笑)。

――「クオリティが上がった」というのは、どういう観点なんですか? 純粋に「いい曲」ということではないですよね。

浜田:うーん……自分の納得度とか、そういうところなんでしょうかね。前作の『In The Precious Age』はアメリカ人の性質がシンプルさを求めるところもあって、アレンジに凝るというよりも、私にとってはシンプルに戻る感じすらあったんです。無駄をなくすというか。『LOVE NEVER TURNS AGAINST』は、トム・キーンとジョン・キーンというキーンブラザーズの2人との出会いで、少し自分好みの方向性に寄り始めました。トムは人間性はいまいちでしたが(笑)、音楽的には近かったんです。トムとランドウ氏が共作して私のために書き下ろしてくれた「In Your Eyes」も良かったですし。カーステレオで流しながら、トムがメロディを考えて歌ってくれて、車の中で私が英詞を現地で書いたのを思い出しました。コーラスはChicagoのジェイソン・シェフです。私も含めて、まだみんな若かったのでエネルギーが凄かったですね。デイヴィッド・フォスターには1曲だけ、キーボードプレイヤーとして参加してもらいました。

――先行シングルとしては『Call My Luck』(1988年6月)がリリースされていますね。

浜田:その前にフォードの自動車のCM曲だった『Forever』(1988年3月)がシングルとしてリリースされたのもあって、それまでのハードロック系のファン層にプラスして、一気に一般層のリスナーが増えました。「Call My Luck」もかなりの転機となる曲だったと思いますね。実はこの曲の誕生によって、後の『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。』(1989年4月)が生まれたと言っても過言ではないんですよ。タイアップ先のカネボウ化粧品さんが、「Call My Luck」をとても気に入ってくださったことがきっかけで、「似た曲を作って欲しい」とオファーが来たんです。「Return to Myself」で売れ線に転向したようなイメージを持たれている方が多いみたいですが、実は少し違うんですよね。段階を踏んでいるというか。

浜田麻里「Call My Luck」

――そうですよね。ただ、「Call My Luck」のリリース当時には、そういう反響はあまりなく、それまでと同等に受け入れられていた気がします。

浜田:ですよね。だから、いかに人の過去の記憶に後からストーリーづけされていくか、事実とは少し異なる色づけがされていくかというのがよくわかるんですよ。私のこの回顧録は一応、真実ですけどね(笑)。後年によく見かけた私に対する批判のひとつ、「ヘヴィメタルクイーンと言われていた時代から急激に売れ線に変わってしまった」という反感を、当時の私は、ほとんど聞いたことがありませんでした。アメリカに行き始めた時も、初期からのコアファンの皆さんは応援してくださっていたし、シングルヒットの時代も、とても喜んでくださっていました。だから、(「Return to Myself」から急に音楽性がポップ化して、一度は魂を捨てたといった論評は)後から少し記憶が脚色されものだというふうに私は理解してるんです。

――確かにそういった声も耳にはしますね。

浜田 : あらゆる解釈や誤解も含めて、起こり得るのは承知の上で、勇気を持って進んできたと思うんですけれど、やっぱり現在の私の存在を肯定してくださるリスナーの皆さんに、過去の足跡も深く理解していただけるとしたら、すごく嬉しいですからね。

――『LOVE NEVER TURNS AGAINST』の後には、1988年9月に『Heart and Soul』がシングルとしてリリースされ、オリコンシングルチャート7位の大ヒットを記録します。表題曲はNHK『1988年ソウルオリンピック』のイメージソングということで、幅広い世代に聴かれる曲にもなりました。

浜田:はい。あれは曲が採用された、ということではなく、ソウルオリンピックのために作った曲なので、ハマったなという感じです。ただ、最初はあまりやりたくなかったんですよ。今となっては、NHKのオリンピック中継のテーマソングを担当できるとなれば、すごく驚かれたり、喜ばれますよね。

――オリンピックに関係する曲を担当する機会など、なかなかありませんからね。

浜田:けど、オリンピック放送のテーマソングは私が第一号だったんです。NHKの新しい試みだったんですよね。だから、当時はそんなにすごいタイアップだという感覚もなかったし、アメリカから帰国してすぐの過労状態でしたし。『LOVE NEVER TURNS AGAINST』が完成したばかりの状況で、日本に帰ってきたら「すぐ作ってください!」っていう話だったんですよ。それは「無理ですよぉ!」ってなりますよね(笑)。

――それは大変なタイミングでしたね。

浜田:ただ、トントン拍子に行くときは行くもので(笑)、大槻さんが納得できるような曲の基盤を早めに作ってくれたこともあって、何とかできちゃったんですよね。

浜田麻里「Heart and Soul」

――でも、よく〈Heart and Soul〉という名フレーズを思いついたなと思いますよ。

浜田:開催地のソウルに引っ掛けたことですよね。正直、苦もなく思いついたという感じでした。ちょっと言葉を引っ掛けたりとか、裏にあるイメージを諷喩で表現したりするのは得意なほうなんですよね。「Heart and Soul」というのは「心と魂」というよりも、「全身全霊」という意味なんです。そう気づいたときに「あっ、いけるな」と思って。

――カップリングの「My Tears」も素晴らしい曲ですよね。

浜田:「Heart and Soul」は、イントロがすごくオリンピック向きにできたことが勝因かなと思いますけど、「My Tears』は歌詞も含めて「Heart and Soul」以上にハマって、自分の生き様とアスリートの心情を重ねた、リスナーの皆さんの情感に訴えるバラードができたという実感がありました。

浜田麻里「My Tears」

――その直後の1988年11月には、この2曲や先ほどの「Forever」なども収録されたシングルコレクション『Heart and Soul』がリリースされました。

浜田:はい。それに関しては、レコード会社の発案だったんですけど、いわゆるベスト盤なので、自分のオリジナルアルバムとしては普通は数えないじゃないですか。だけど、中身は「Heart and Soul」「My Tears」「Forever」「Crime Of Love」、そして「Magic」という、通常のオリジナルアルバムに収録されていない曲が多く占めたので、一応この『Heart and Soul』も含めて数えるようにしているんですけどね。それらのシングルのカップリング曲、B面曲も含めてアルバムには未収録でしたから。それもあって、今回のアルバム(2023年4月19日発売の『Soar』)を27枚目としているんです。

――そして、アルバム『Return to Myself』が1989年6月にリリース。4月には同タイトルのシングルが先がけて発売されています。

『Return to Myself』

浜田:『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。』というように、サブタイトルがつくのがシングル版なんです。タイアップの関係で、シングルのほうにはその標記を入れる必要があったんですね。タイアップ先のカネボウ化粧品さんからは、先ほどの「Call My Luck」に似た曲を、という依頼だったので、たぶん大槻さんもそんなに困らなかったと思うんです。確か2〜3曲作ったのかな? そのうちの2曲に“しない、しない、ナツ。”っていう言葉を入れて歌詞を書きました(笑)。その中から選んだんですね。

――シングルチャートで1位を獲得しましたし、すごく知名度の高い曲ですよね。

浜田:どうなんでしょう。当時の実際の売れ方と比べると、浸透度はむしろ低いなと思いますけどね。シングルが大ヒットすると、その後の時代にもリバイバル的に盛り上げようとするプロジェクトが立ち上がるのがこの業界の常で、他のアーティストさんたちの曲はそれによって、時代を超えてスタンダート化していくんですよね。でも、私はそういうことにまったく興味がなかったんですね。後の時代のお話となりますが、レーベル移籍も多いですし、スタッフの入れ替わりが続いていましたので、リバイバルプロジェクトが立ち上がらなかったんです。とはいえ、いろいろ大変なこともありましたけど、「Return to Myself」があったから楽になったところも大きいですし、今も自分の考えのまま自由に音楽を作っていけるのも、そういうヒットを経験してきたからだと思うんですよね。

浜田麻里「Return to Myself」

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