アルファレコードにはなぜ超一流の才能が集ったのか? 村井邦彦×川添象郎×吉田俊宏 鼎談【前篇】

村井邦彦×川添象郎×吉田俊宏 鼎談

「アルファ」という社名の由来

吉田:『ヘアー』はベトナム反戦とか当時のヒッピー文化を象徴するブロードウェイミュージカルですが、そもそもこの作品を日本に持ってこようと考えたのが象郎さんだったわけですよね。

川添:そうです。当時、加橋かつみという渡辺プロダクションを辞めた青年がいて。

吉田:ザ・タイガース(沢田研二、岸部一徳らが所属したグループサウンズの人気バンド)を脱退した時の話ですね。1969年の春ごろ。

川添:そう。その加橋のソロアルバムのレコーディングをパリでやったわけ。パリでレコードを作って日本で売りたいということで、僕がバークレイ・レコードのエディ・バークレイ社長と契約してね。その時たまたまパリで『ヘアー』のリハーサルが始まったので、見にいったんですよ。

吉田:加橋さんと一緒に?

川添:うん。加橋が街で知り合ったカルロスという男も交えて、みんなで連れだって行くことになったんだけど、その時にね、変なヒゲをはやしたオヤジも付いてきたわけ。

村井:ふふふ。

川添:それがサルバドール・ダリだったの。

吉田:あの有名な画家のダリですか?

川添:そう、本人。でも、まさか僕はそのオヤジがダリだとは思わないからさ。「いったい、こいつはダリだ?」みたいなね。

吉田:ははは。

サルバドール・ダリ

川添:それでね、みんなで見にいったら、すごく面白いリハーサルだった。僕はハッと思いついたの。日本でやったらいいんじゃないかなってね。それでプロデューサーのベルトランド・キャステリのところにツカツカと歩いていって「僕は日本のプロデューサーだけど、この舞台を日本でやらせてくれませんか」と言ったの。

吉田:すぐに、その場で?

川添:そう。隣に例の変なオヤジも付いてきていたわけ。

吉田:「こいつはダリだ」のダリですね。

川添:そう、ダリ。たぶん、キャステリみたいな大物が話を聞いてくれたのは、僕の横にいたダリの信用でね…。

村井:あははは。

川添:そう。ダリの信用で向こうは話に乗ってきたんじゃないかと思うんだ。

吉田:ダリが後見人だと思われたんですね。

川添:まあ、それで「これから3カ月間で日本の公演を決めてくるから、その間のエクスクルーシブ(独占)の交渉権を僕にください」とキャステリに頼んでね。

吉田:それで、すぐに日本に帰ってきて?

川添:うん。親父(川添紫郎)にも相談して松竹に話を持ち込んだ。当時、松竹に豪快な人がいたんだよ。永山武臣さん(当時は松竹演劇担当常務、後に社長、会長)って。その人が面白がって、やろう、やろうとなって始まったの。

吉田:日本人キャストでやることは最初から決まっていたのですか。

川添:そもそも『ヘアー』のコンセプトがそうなの。それぞれの国でオーディションをして『ヘアー』的な人間を集めて作るというのがね。だからドイツ公演ではドイツ人だし、フランス公演ではフランス人のキャストだったの。

吉田:なるほど、すると小坂忠さん、あるいはシー・ユー・チェンさん(成毛滋のバンド「ザ・フィンガーズ」のベーシスト。ユーミンを妹のようにかわいがった)といった人たちはオーディションの情報を見て応募してきたわけですか。

川添:小坂とかシー・ユーといった人たちは、僕は前から知っていて、彼らが優秀だってことは分かっていたんですよ。だからオーディションは形だけにして、最初からキャスティングに組み込んでいたんだよね。

吉田:そうだったんですか。

村井:僕はね、象ちゃんが『ヘアー』のリハーサルを見にいった頃、一緒にパリにいたんですよ。それが僕のアルファを始める発端でさ。バークレイから「マイ・ウェイ」の著作権を買って、音楽出版やレコード制作の仕事をやることになり、一方で象ちゃんは『ヘアー』の日本公演をやるという道を見つけたわけだね。そのうち、だんだんレコード制作の方に『ヘアー』の関係者が入ってきて、マッシュルーム・レーベルも始まって…という流れですね。

川添:偶然が重なって、いろんなことが始まった年だったね。

村井:うん。松竹の永山さんが『ヘアー』に興味を持ったというのがすごいよね。もともと歌舞伎の海外上演をやった人だからね。

川添:永山さんはアヅマカブキ(川添紫郎がプロデュースした吾妻徳穂による日本舞踊の欧米公演)の関係で、うちの親父(川添紫郎)と仲が良かったみたい。

村井:そういう人が若者のロックミュージカルに興味を持って松竹でやることになったんだから面白いね。

川添:すごい決断だよね。

吉田:東宝の菊田一夫さんが手がけたミュージカル『マイ・フェア・レディ』(1963年)の成功が念頭にあったようですね。

川添:そういえば『ヘアー』をやった頃、アルファミュージックの「アルファ」という社名を考えたんだよね。

村井:うん。安いホテルのベッドにひっくり返って「社名はどうしようか。イプシロンでどうだ」と言ったら、象ちゃんが「そりゃ難しくて大変だよ。アイウエオのア、ABCのAだから、アルファがいいよ」と提案して、アルファを「ALFA」と書いたんだよね。ははは。正しいスペルは「ALPHA」なんだけどさ、アルファロメオ(Alfa Romeo)っていうイタリアの車のことばっかり考えていたから。それがアルファの出発点。

川添:はははっ、ひどいもんだね。しかし、ひょうたんから駒みたいなもので、レコードが売れたら「ALFA」のロゴが格好よく見えちゃうんだよね。

村井:そうそう。

吉田:ところでマッシュルーム・レーベルから小坂さんやガロがデビューしましたが、当初はあまり売れなくて、しばらくしてガロの「学生街の喫茶店」が大ヒットしましたね。山上路夫さんの作詞で、すぎやまこういちさんが作曲しています。ガロのメンバーも曲は作れるのに、プロの作家に頼んだのは会社としての作戦だったのですか。

村井:それはミッキー・カーチスが言い出したんですよ。「なかなか爆発的に売れないから、職業的な作家に書いてもらった方がいいんじゃないか」ってね。それで山上路夫さんとすぎやまこういちさん、山上さんと僕のコンビでそれぞれ1曲ずつ作ってシングルにした。僕の作曲した「美しすぎて」をA面にして出したら、名古屋のラジオ局がB面の「学生街の喫茶店」をガンガンかけ始めた。それを受けて裏表をひっくり返して発売し直したら本当にミリオンセラーになってしまったんだね。

吉田:当時、街でよく流れていました。

村井:ただ、マッシュルーム・レーベルは財政難で縮小に縮小を重ねて、ついにアルファミュージックの社内にデスクが1つだけという状態になって、深水(深水龍作。『ヘアー』に出演した俳優)の奥さんが褞袍(どてら)を着て座っていた。

川添:あははは。

村井:その頃、アルファとヤナセ(輸入車ディーラー)の合弁でレコーディングスタジオをつくろうという話が持ち上がったんですよ。それでスタジオづくりをやる会社の母体をマッシュルームにしようということになった。それがアルファ&アソシエイツ。

吉田:なるほど。

村井:そこにアルファミュージックの持っていたレコード制作部門をすべてくっつけて、スタジオ営業も含めて一つの会社にして、それが発展してアルファレコードになったわけですね。

吉田:はい。

村井:それでね、僕はパートナーの梁瀬次郎さんに「川添象郎という男がいます。素晴らしい才能の持ち主で、ぜひ会社に入れたいのですが」と相談したんです。川添紫郎さんを知っていたんだね、梁瀬さんは。「あのキャンティの川添の息子か? いいだろう」ということになった。それで象ちゃんを制作担当の役員としてアルファに連れてきたわけです。

川添:そうだったんだ。

村井:そうだったんだって、話さなかったっけ?

川添:聞いてない、聞いてない。はっはっは。僕はその頃、企画会社をやっていて、クニ(村井)がレコード会社を始めるっていうので、企画会社のアルバイトをしていた小尾一介君も一緒にクニの会社に入っちゃったんだ。小尾君は慶応の学生だったんだけど、目を白黒させているうちにアルファに巻き込まれちゃってね。でもその後はグーグルの執行役員になったりして、ビジネスの世界で大活躍しているらしいよ。

村井:そうみたいだね。

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