宇多田ヒカルのコーチェラフェス出演はなぜ特別だったのか? 88risingとステージを共にした意義
「88risingのショーンに誘われてちょっとコーチェラ出ることになりました」という宇多田ヒカルのSNS告知があったのは本番の7時間半前。現地時間の午後6時ごろからスタートした88risingのステージは、アジアの音楽シーンにとって非常に意義深いものとなった。
「宇多田ヒカルさんはレジェンドであり、私にとっての日本のヒーローでもあります。彼女をHead In The Clouds Foreverに招くことができ、まさに夢が実現しました。そして、宇多田ヒカルさんにとって初となる音楽フェスへの出場を叶えることができたことを光栄に思っています」(※1)
ショーン・ミヤシロ(88rising Founder/CEO)のコメントどおり、今回の出演はとても特別な機会だったわけだが、それがいかに特別なのか把握するためには、88risingというコミュニティ、そして『Coachella Valley Music and Arts Festival』(以下『コーチェラ』)というフェスティバルについての理解が必要となる。本稿では、こうした切り口からこのステージの意義について考えてみたい。
まず、『コーチェラ』について。アメリカはカリフォルニア州・インディオにある砂漠地帯、コーチェラ・バレーで開催される野外音楽フェスティバルで、ほぼ同一ラインナップの公演が2週続けて行われる(つまり、ほぼ同じラインナップのフェスをWeek1・Week2の計2回観ることができる)。1日あたり12万人もの人々が訪れる規模は世界最大級であり、近年は主要アクトの大部分をYouTubeでリアルタイム配信している(24時間以内なら巻き戻し再生可能)。ラインナップの選定についても非常に意識的で、人気と先鋭性を兼ね備えたポップスターがしのぎを削る機会にもなっており、2018年にトリを務めたビヨンセのパフォーマンスをはじめ、伝説的な名ステージも多い。そうした歴史が生まれる地として毎年同フェスへの注目度は極めて高く、アーティストにとってはそれまでのキャリアを全てかけた最大の見せ場でもあるのだ。今回の88risingは同フェスにおけるキャパ最大のメインステージ(コーチェラステージ)、しかもその日のフェスの佳境へと突入する夕方のちょうどいい時間。これ以上ないほどの大舞台だったと言える。
そして、88risingについて。日系アメリカ人のショーン・ミヤシロが2015年に立ち上げたクリエイティブ企業で、アジア出身アーティストのマネジメント/コンテンツ制作/ディストリビューションを幅広く手掛け、R&Bやヒップホップの領域を中心に大きな話題を呼んできた。その最たるものが、昨年9月に公開されたマーベル映画『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のサウンドトラックだろう。ジョエル・P・ウェストによるオリジナルスコアとは別に制作されたこのサントラは88risingがキュレーションからエグゼクティブプロデュースまでを務め、インスパイア曲とともに『シャン・チー/テン・リングスの伝説:ザ・アルバム』としてリリースされた。
星野源も参加した本作は、同じMCUシリーズの名作映画『ブラックパンサー』でケンドリック・ラマーが主導したアルバムに通じる意義を持つもので、世界最大級のコンテンツを通してアジアの存在感と実力に目を向けさせるまたとない機会となった。こうした抜擢の背景には、88risingがアメリカで行った初の大型音楽フェス『HEAD IN THE CLOUDS FESTIVAL, the 88rising experience』(2018年9月)などの地道な積み上げがあったからで、このフェスの名前を冠した今回の『コーチェラ』の舞台は、同レーベルにとっても、アジア人コミュニティにとっても、一つの到達点を示すものだったように思う。
以上を踏まえて認識されるべきなのが、今回の宇多田ヒカルの出演はあくまで“88risingの一員としてのものだった”ということである。1月にリリースされたアルバム『BADモード』は、UK/USビートミュージックの近年の潮流に絶妙に対応した傑作で、その路線に大きく貢献したFloating Pointsも同日『コーチェラ』に出演、翌日のトリにはSwedish House Mafia / The Weekndが控えていることもあって、この新譜からの選曲が多くなるのではないかと考えた人も多かったはず。しかし、実際に披露された5曲はこうしたモードとは大きく異なる方向性を示していた。「Simple And Clean」「Face My Fears」は世界的人気を誇るゲーム『キングダム ハーツ』シリーズのテーマ曲、「First Love」「Automatic」は日本のみならずアジアのR&Bシーンに革新をもたらした名曲。いずれもアジアンポップスのクラシックであり、歴史的な意義も知名度も非常に高い(実際「Automatic」のイントロが流れた瞬間、YouTubeチャット欄は様々な言語で埋め尽くされていた)。今回の『コーチェラ』では、近年のビートを入り口にアジアならではのR&Bへ向かっていく流れを示す88risingのセットリストがまずあり、宇多田のソロ4曲(いずれもアジアンポップスのクラシック)はこの中で特にメロディアスなパートを担い、自身の音楽の文脈的価値を示しつつセット全体の強度を高める役割を果たしていたと言える。
大物ゲストとしてではなくチームの一員として機能し、全体に貢献しつつ自らもフックアップしてもらう。宇多田はその長いキャリアにおいてライブ経験は少なく、さらに初のフェス出演=アウェイにもかかわらずパフォーマンスは安定しており、素晴らしい存在感を発揮していた。これは88rising、そして様々な文化圏の優れたアーティストを積極的に呼んでいる『コーチェラ』という舞台だからこそ初めて可能だったのではないか。88risingや日本の一部コンテンツが地道に積み上げてきた価値があってこその今回のステージであるということは、しっかりと周知されるべきだと思う。