角野隼斗のピアノ演奏にある自由さの根源 影響受けた様々な“表現”を明かす

 昨年『ショパン国際ピアノコンクール』を賑わせたピアニスト、かてぃんこと角野隼斗が今年1月から全国ツアーを開催し話題を集めている。

 前半はフレデリック・ショパンの楽曲に自身のオリジナル曲を織り交ぜたセットリストで、後半は時折鍵盤ハーモニカをフィーチャーしながら「ラプソディ・イン・ブルー」などジョージ・ガーシュウィンの代表曲を披露。ガーシュウィンは、昨年ブルーノート公演で角野が取り上げた作曲家でもあり、そういった意味でも本公演は角野のこの1年間の「総仕上げ」ともいえる内容。なお、来たる2月20日に東京・国際フォーラムで開催されるファイナル公演では、オーケストラを迎えてピアノ協奏曲を演奏する予定である。

 クラシックピアノを主軸にジャズやポップミュージックなど、様々なジャンルのアーティストと積極的にコラボしながら、自らの表現スタイルを拡張し続ける角野。彼の目には今、どんな景色が映っているのだろうか。

 全国ツアーの手応えや、ファイナルに向けての意気込み、彼がここ最近影響を受けたモノについてたっぷりと話してもらった。(黒田隆憲)

前半と後半の雰囲気を明確に変えたコンサートプログラムの狙い

ーー1月10日からスタートした全国ツアーですが、僕は沼津公演を拝見しました。音の粒子が見えるようなきめ細やかさ、特に(強弱の)ピアノやピアニシモの繊細な表現は圧巻でしたし、フォルテやフォルテシモの豊かさ、ダイナミズムにも圧倒されました。

角野隼斗:そう言ってもらえてとても嬉しいです。実際のところ、ピアノ1台で2時間持たせるのはすごく難しくて。いかに飽きさせず、楽曲の持つ様々な表情をどう届けるかを常に考えていました。その結果、今回のツアーは思っていた以上に喜んでいただけている感触があります。コンサートの最後のアンコール曲を弾くと、どの会場でも温かい拍手をいただいているのですが、それは純粋に嬉しいですしありがたいなと思っています。

ーー最後、角野さんが「話すのもやっと」というくらい疲労困憊されている様子を見て、2時間ずっと集中力を保つことの大変さがひしひしと伝わってきました。

角野:実を言うと、ショパンを演奏している前半の方が疲れるんですよ。物理的にはガーシュウィンを演奏する後半の方がエネルギーを使っているのですが、精神的なエネルギーの消耗が前半は半端じゃなくて(笑)。根本的なところに違いはないのですが、例えば打鍵のニュアンスやタッチなどで、「何を表現したいか?」という方向性が大きく変わってしまうため、とてつもない集中力が必要なんです。

HAYATO SUMINO – third round (18th Chopin Competition, Warsaw)

ーー2時間を飽きさせないために、構成も考え抜かれているなと思いました。

角野:例えば前半と後半の雰囲気を、かなり明確に変えたのもそれが理由です。当初はショパンの戯曲的な部分からガーシュウィンに繋ごうとも考えていました。特にショパンのワルツ曲などは、かなりガーシュウィンと通じるところがあるので。でも結局それはやめて、前半と後半の雰囲気をガラリと変える方向にしたのは正解だったと思います。特に前半は、曲の繋ぎなど一つの流れで見せることも意識しました。例えば「ソナタ」という括りの中ではもちろんそうですが、それだけじゃなく曲順を考える時にも、同じ音で繋ぐなどしてますし。逆に後半は、いろいろな楽曲をいろんな方向からアプローチをしていて。そういう違いを見せることで、全体が面白くなったらいいなと。

ーーショパンとガーシュウィン、それぞれの魅力や共通点など捉えているのでしょうか。

角野:若い頃のショパンが作る音楽はどれも華やかで技巧的、かつエスプリの効いたユーモアを感じさせるものが多いんです。「ワルツ第1番(華麗なる大円舞曲)」などそれが顕著に表れていますね。ワルツに関しては、当時流行っていたから作曲したというのももちろんあると思いますが、即興でたまたま出来たものがベースにあるんです。若い頃の作品のみならず、「マズルカ」など晩年期の作品に至るまで、彼が狭い部屋のアップライトピアノで、その時の気持ちをそのまま吐露していた様子がありありと浮かんできます。

ーーなるほど。

角野:ガーシュウィンも同様で、彼の中から自然に溢れ出てくる音がたまたま楽譜になったようなところから始まっている気がします。例えばバッハの音楽は、ものすごく数学的かつ理知的に作られているし、あれを即興的に生み出したとはちょっと考えにくい。ガーシュウィンの音楽はそれとは全く別の、自然に浮かんでくるインスピレーションだと感じています。

10 levels of "I got rhythm"

「伝統と革新はどのジャンルでも重要なキーワード」

ーークラシックのコンサートはよく「再現芸術」と言われます。でも角野さんの演奏を聴いていると、本当にその場で音が生み出されたような自由さや開放感があります。それは角野さんが、クラシック以外の音楽にも積極的にコミットしてきたからこそ獲得できたものなのではないかと。

角野:クラシックの演奏家には、人類の遺産である伝統芸術を現代に届ける伝達者的な役割があるので、正しく伝えるために、譜面を読み込み、「どう弾くか」ということを練習の段階で細部まで考え尽くすし、それはとても重要なことです。ただ、僕は明らかにいろんなジャンルの音楽に触れ、他ジャンルの異なるミュージシャンとセッションするなどの経験をしてきたからこそ、その場で溢れ出てくるインスピレーションを大切にしたいという気持ちが他のクラシック演奏家より強い気がします。ライブはお客さんとのコミュニケーションだと思っていますし、ツアーで同じ曲を何度も演奏していても、何か新しい発見がある。それこそライブの醍醐味なんですよね。

ーー例えば歌舞伎も、伝統を重んじつつも革新的な試みを織り交ぜ、「伝統」と「革新」の両輪を動かしているからこそ、今なお愛され残っているのかなと思います。クラシック音楽にもきっとそういう部分はあるのでしょうね。

角野:はい。伝統と革新はどのジャンルでも重要なキーワードだと思います。歌舞伎はそこまで詳しくはないですが、以前、市川猿之助さんがスーパー歌舞伎をやるに至った経緯について書かれた本(『スーパー歌舞伎 ものづくりノート』/集英社新書)を読んだことがあって。もともと歌舞伎は庶民が楽しむもので、文化も生活様式も何もかも変わってしまった今、それを当時のままやっても「庶民的ではない」という矛盾がある。要するに、スタイルを変えないことが「本質を変えない」ということに繋がっているかというと、必ずしもそうではないと書かれていて。それは全くそのとおりだと思うんですよ。

ーーそれはクラシックの演奏にも通じる話だと。

角野:もちろん、クラシックにも変えてはいけないところはありますが、変えた方が絶対に面白くなるところもきっとあって。そのバランス感覚がとても大事だし、そのことを様々なジャンルから学んでいます。そもそもショパンを大ホールで演奏すること自体が矛盾した行為だったりしますが、それをやることで演奏も当然変わってくる。ホールの隅々まで音を届けなければならないですからね。そうやって時代とともに変化していく中で、何が本質なのかを考えること自体が楽しいですし、幸せなことだなと日々思っています。

ーー角野さんのオリジナル曲をショパンの曲の中に混ぜ込んでいるのも、ショパンを「生きた音楽」として聴かせるための一つの実験なのかなと思いました。

角野:例えばリストなどは、ベートーヴェンやバッハの楽曲に自分の新曲を混ぜて演奏会を開いていたわけで、それに対する憧れみたいなものですかね(笑)。僕は1800年代のパリには住んでいないけど、2000年代の東京にいることのアイデンティティを表明したいと思っていました。海外でも同じような試みをしているピアニストはいるんですよ。

ーー例えば?

 

角野:アイスランドのピアニスト、ヴィキングル・オラフソンによるドビュッシーとラモーを織り交ぜたアルバム『ドビュッシー-ラモー』、そしてドビュッシーあるいはラモーの作品のフレーズに基づいた瞑想的なリワーク『リフレクションズ』はとても興味深いものでした。フランチェスコ・トリスターノも新作『オン・アーリー・ミュージック』で、バロックよりも古い音楽に自分のオリジナルを混ぜています。アリス=紗良・オットさんも『エコーズ・オヴ・ライフ~ショパン:24 の前奏曲、F.トリスターノ、ペルト、リゲティ、他』という、ショパンの24 の前奏曲の間に現代音楽を挟んでいくという試みに挑戦していました。21 世紀にクラシックをやる意味を考える流れが世界的にきているのを感じます。

Ólafsson: Reflection
Chopin: 24 Preludes, Op. 28 - No. 17 in A Flat Major. Allegretto
 

ーーそういえば、後半ではピアノとピアニカを同時に演奏していましたね。ピアニカを用いて角野さんが歌っているようにも感じられて新鮮でした。

角野:ピアノにはできない表現が欲しい時に僕はピアニカなどの鍵盤ハーモニカを愛用しているんですが、確かに歌に近い表現かもしれない。ピアニカを演奏すると管楽器奏者の気持ちが少し分かるんです。ピアノは打鍵すると、ポーンと鳴ってそのまま減衰していきますが、ピアニカは音を伸ばしたり、強弱をつけたりビブラートをかけたり、1音に対していろいろなダイナミクスをつけることができる。弦楽器にも似ていますが、そういう打楽器的ではない楽器を演奏する気持ちを、鍵盤奏者でありながら擬似的に体験できるのは楽しいです。

ーー2月20日には国際フォーラムにてオーケストラとの共演が控えています。以前のインタビュー(※1)で「ピアノ協奏曲を体験したことで、ピアノの弾き方も変わった」とおっしゃっていましたね。

角野:はい。例えば今回のツアーで「ラプソディ・イン・ブルー」をピアノ1台で演奏していますが、自分としてはオーケストラを鳴らしている気分なんですよ。最初はクラリネットで始まって、あのスライドを表現したいからめちゃくちゃレガートで弾いたり、その次にくるトランペットのミュート音や、弦楽器の広がりもピアノで再現しようと試みたり。どこまでピアノで表現できるか試行錯誤を繰り返しました。しかも「ラプソディ・イン・ブルー」はピアノ独奏と管弦楽のための作品なので、それを全部ピアノ1台で表現するのはものすごく不思議な気持ちでした(笑)。

ーー2月20日の国際フォーラムでは、ピアノ協奏曲「Concerto in F」の演奏もありますね。

角野:ずっとやりたかったことです。知名度は「ラプソディ・イン・ブルー」ほど高くないですが、同じくらい素敵な曲です。長いけどストーリーがしっかりしていますし、第1楽章の冒頭に出てくるフレーズが、第3楽章の最後にまた出てくる時のカタルシスをぜひ感じてほしいです。

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