小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード3 カンヌの夏ーマルセル 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード3

エピソード3
カンヌの夏ーマルセル ♯3

「シロー、おはようございます。パンを買いにいきます。一緒に行きませんか」とドアをノックしながらマルセルが言った。
「おはよう、マルセル。君は毎朝パンを買いにいくのかい?」
「もちろんです。僕は焼きたてのパンを買うために毎朝早起きしています。焼きたてのパンのおいしさは炊きたてのご飯と同じですよ」
 紫郎とマルセルはエレベーターで階下に向かった。マルセルはジャケットと同じ薄いベージュ色のパナマ帽をかぶっている。
「それ、なかなか似合っているね」と紫郎が言うと「神戸で買ってきました。これをかぶっているとカンヌでも評判なのです」とマルセルはうれしそうに笑った。
 2人がロビーに出ると、コンシェルジュが昨日と同じ調子で「ボンジュール、メッシュー」と歌うように挨拶した。ムッシューが複数形になったのは、自分にも挨拶してくれているのだと紫郎は理解して「ボンジュール、ムッシュー」とそっくりに節をまねてお返しをした。コンシェルジュが白い歯を見せた。昨日はもっと年寄りかと思ったが、よく見ると、まだ40代ぐらいのようだ。彼とは仲良くなれそうだと紫郎は思った。
 「イザベルの家」という名のブーランジェリーで焼きたてのパンを買った2人は、ついでに買ったクロワッサンをかじりながら、向かいにある真新しい市場に入った。
 1934年に完成したばかりのマルシェ・フォーヴィルは広大な屋内の市場だ。果物や野菜、香辛料、肉類、チーズやハム、魚介類、花などが所狭しと並んでいる。
「赤、緑、黄色、紫、オレンジ……。すごいね。商品の種類じゃなくて、色で区分けして陳列したんじゃないかと思えるくらい見事な配色だ。どこを切っても絵になるんじゃないかな。セザンヌの静物画みたいだ」と紫郎がため息をつくと、マルセルが「はい、この色は確かにポール・セザンヌですね。ただ、セザンヌがいくら天才でも、南仏の光と果物がなければあの絵は生まれていませんよ」と真顔で言った。
「うん、南仏の光ね。確かにここの太陽光線は特別だ」と話しながら、紫郎は肉売り場の前で立ち止まった。
「いろんな肉があるね。あのぶら下がっているのは何だろう」と紫郎が訊いた。
「ウサギですよ。白ワインで煮て食べます」
「毛を剥いで売られているわけだね。因幡の白兎みたいだ。マルセル、あのぐにゃぐにゃしたやつは何だか分かる?」
「はい。仔牛の喉ぼとけ、脳みそ、腎臓、肝臓……」
「ひゃー、つまり全く無駄なく、何でも食べるってことだよな。あっちに見慣れない真っ黒なソーセージがあるね」
「あれはブーダン・ノワール。血で作ったソーセージですよ。隣にあるのはアンドゥイエットといって、豚の腸に内臓を詰めています。僕はちょっと臭くて苦手です」とマルセルが笑った。
「肉はずいぶん違うけれど、魚は日本と同じようなものだね。イワシなんか、東京で食べていたのと全く同じ形だ。あれ、なんだろう、この四角い顔の魚は。背中に取っ手をつけたら、まるで鞄じゃないか」と紫郎が体の真ん中に弓道の的のような黒斑のある魚を指さした。
「はっはっは。鞄ですか。シローは面白いことを言いますね。サン・ピエールといいます。このあたりでよく獲れる有名な魚です。ムニエルやポワレにするとおいしいんですよ」
「ポワレ?」
「ムニエルは小麦粉をつけてバターで焼きます。ポワレは小麦粉をつけません」とマルセルはフライパンを持つしぐさをしながら説明した。
「サン・ピエールって、聖ペテロだよね。12使徒の。そんな聖なる名前がつくほど高貴な魚とは思えないけどなあ」と紫郎が言うと、マルセルは笑いながら、魚を売っている頭髪の薄くなった毛深い中年男に何やら話しかけ、しばらく話し込んだ。
「やはり聖書だそうです。マタイの福音書はご存じですか。僕は小さいころから何度も聖書を読んでいますから、この話も何となく覚えています。イエスがペテロに魚を釣りなさいと言います。ペテロはもともと漁師ですからね。ペテロが魚を釣ったら、口から銀貨が1枚出てきました。そういう話です。サン・ピエールの体に黒いコインのようなものがついていますね。あれはペテロの親指の跡だといわれているそうです」
 紫郎は「ふーん、なるほどねえ」と言いながら、神戸港まで見送りにきてくれた親戚の小島威彦や歴史哲学者の仲小路彰から何度も聞かされた話を思い出していた。西洋人の生活にどれほど深く聖書が浸透しているかを。そこを理解しなければ、日本人は永遠に西洋人を理解できないぞ、と念を押されていた。
「なるほど、聖書かあ」と言って頭をかきながら、紫郎はヴァレリーの文章を思い出した。聖書に加えて古代ギリシャ・ローマの文化も深く知っておく必要がありそうだ。

サン・ピエール

 海鮮売り場の真ん中で紫郎が立ち止まった。
「どうしました?」
「い、いや、あれはマグロだよね。昨夜、あの雑誌を読んだんだよ」
「ああ、ヴァレリーの講演録ですか」
「地中海が血に染まっていく夢を見たんだ。朝の4時ごろ目が覚めてね……」とそこまで話したところで、紫郎はぴたりと動きを止めた。「ま、まさか」と押し殺した声で小さくうめく。
「ど、どうしたんです? またマグロですか」とマルセルもつられて声を潜めて訊いた。
「僕の後ろを黒っぽい背広姿の日本人が歩いているだろう。身を隠したかもしれないけど」と紫郎が首を動かさずに小声で言った。
「背広ですか? 日本人?」
 素早く目だけを動かし、あたりの様子をうかがったマルセルは「いませんよ。背広姿も日本人も。ここにいる東洋人らしき男はシローと僕だけです。いったい、どうしたのですか。背広の日本人の悪夢を見ましたか?」と紫郎の肩に手をかけ、耳元でささやいた。
「あれは悪夢といえば悪夢かな。しかし、おかしいな。あそこのピーマンや玉ねぎを売っているあたりから、男がこっちを見ていた気がするんだが」。紫郎は手で口元を隠しながらつぶやいて「ごめん、マルセル。きっと気のせいだ。マグロのせいで、幻覚を見てしまったようだ」と言った。
 あの背広男は途中の駅に置き去りにしてやったじゃないか。まさか、翌朝、こんなに早い時間からカンヌに現れるはずがない。
「マルセル、ひとつ買い物をしたいんだ。近くにお菓子屋さんはないかな」
「シローは甘いものが好きなのですか」
「いやいや、シモンにプレゼントしたいんだよ」と言うと、マルセルは「それは素晴らしい」と叫んでパチンと指を鳴らした。
「シモンのために買うなら、絶対にマカロンです。彼女の大好物ですからね。喜びすぎて倒れるかもしれませんよ。良い店が近くにあります。もちろんシモンには夜のパーティーまで内緒にしておきますよ」

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