ライブバンド・THE YELLOW MONKEYの魅力(前編)

THE YELLOW MONKEYがライブバンドとして成し遂げた偉業 現場スタッフが明かす、90年代の最盛期~解散までの舞台裏

転機となった1995〜1999年のツアー

 1995年はTHE YELLOW MONKEYにとって大きなターニングポイントとなった。先のアルバム『smile』のヒットに加えて初の日本武道館公演の実現、「追憶のマーメイド」や「太陽が燃えている」といったヒットシングルの誕生に加え、この年2作目のアルバムとなる『FOUR SEASONS』(1995年11月発売)が初のチャート1位を獲得。音楽面でも初期のグラマラスで若干難解なロックナンバーから、ストレートでわかりやすい作風へとシフトチェンジしており、こうした要因がライブバンドとして武道館まで到達したTHE YELLOW MONKEYをCDセールス面も右肩上がりへと導く、ターニングポイントの1年だった。

 現在バンドのマネジメントを手がける株式会社TYMS PROJECTの青木しん氏が初めてTHE YELLOW MONKEYと関わるようになったのも、この頃のことだ。

「1995年秋、確か群馬での学園祭だったと思いますが、当時ソーゴー東京のスタッフとして現場に付きました。そのときに初めて彼らのライブを観たんですが、映像とかテレビとかのイメージとはだいぶ違うなという印象を受けて。『こんなにシンプルなんだ』というのが第一印象でした。シンプルというかロックなんだなって」(青木氏)

 1996年に入るとシングル「JAM」や「SPARK」のメガヒット、全43公演におよぶ全国ホールツアー『TOUR '96 FOR SEASON “野性の証明”』、以降恒例行事となる12月28日の『メカラ ウロコ』初開催と大きなトピックが続く。レーベル移籍を経てシングル「楽園」の大ヒットや、1997年にはメジャー6thアルバム『SICKS』のチャート1位獲得、キャリア初となる全国アリーナツアー『ARENA TOUR '97 “FIX THE SICKS”』(全20公演)や初の野外ツアー『TOUR '97 〜紫の炎〜』(全5公演)と活動規模を広げ、1998年にはシングル『球根』&メジャー7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』のチャート1位獲得、今や伝説となった113本におよぶ1年がかりの全国ツアー『PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99』(1998年4月〜1999年3月)開催と、ロックバンドとして頂点に達しつつあった。

 この時期のツアーについて各地イベンタースタッフに思い出を聞くと、それぞれ興味深い回答を寄せてくれた。

「『野性の証明』ツアーはとにかく四国全県でやりたかったので実施できて良かったです。前年の松山に次いで高知、徳島、高松は初めて行くところばかりで、こちらの意図も組んでくれたと思います。特に高知は土地柄的にロックバンドには寛容な土地なので、すごい盛り上がりだったのを覚えています。メンバーも各地各地を楽しんでいたように思います」(株式会社デューク 西村氏)

「1996年の『野性の証明』ツアーのとき、旭川公演の翌日が札幌でした。そこでせっかくだから早めに札幌入りして、リハーサルの前に某人気ラーメンを食べに行こうって話になったんです。でも急遽テレビの収録が入り、リハの時間が早まって行けなくなってしまった。仕事だから仕方がないけど、楽しみにしてたメンバーは僕に恨み節ですよ(笑)。そこでなんとかしてあげたいと思い、次のツアーではお店からドンブリや店員さんのユニフォームなどをいろいろと借りてきて、楽屋に暖簾も下げて、スタッフがお土産用の生ラーメンを調理してふるまったんです。それをみんな喜んでくれて、その後のツアーでも楽屋ラーメンは続きました」(株式会社マウントアライブ 山本氏)

「再集結前の制作的な思い出では、1997年3月『FIX THE SICKS』ツアー仙台市体育館での、運んでも終わらない数のテレビモニターと、1997年8月『紫の炎』ツアーのオープニングの保冷車と、ステージセットとして使用された津軽のねぶた絵です。ライブの内容もほんとうに大好きなツアーでしたが、1997年は特に濃い年だったので印象に残っています」(株式会社ジー・アイ・ピー 菅氏)

「1997年の『紫の炎』ツアーが福岡では、今ではアウトレットモールになっている西区のマリノアというところで催されたのですが、圧巻でした。当時では考えられないほどの規模感で、THE YELLOW MONKEYの大きさが青臭い自分には衝撃的でした」(株式会社ビッグイヤーアンツ 尾嶋氏)

「野外ツアーの『紫の炎』では名古屋に適当な会場がなく、ようやく見つけたのが国際展示場の駐車場を使ってライブをするという発想でした。でも、駐車場なんかで興行をするのはサーカスだけだと断られ続けたのですが、それでも頑張ってアピールし続けたら、大森社長が『メンバーはもうその期間はオフにしてあるけど、もう一度説得してみるわ』と言ってくれて、メンバーも僕の熱意と誠意(?)にほだされて、最後は首を縦に振ってくれたと聞いてます。僕のイベンター人生の中の一番のターニングポイントにもなったと思います」(会社名 株式会社サンデーフォークプロモーション 遠藤氏)

 大森氏、倉茂氏、青木氏にとっても、この時期のライブは特に記憶に残るものが多いと話す。

「『FIX THE SICKS』は僕も強く印象に残ったツアーでしたね。『jaguar hard pain』ぐらいまでは楽曲がちょっと複雑なので、あんまり大きいステージで映えないというか、ライブハウスに合ったサウンドだった。それが『smile』を作って武道館を経験して、大きいところでやるべき曲を作れるようになった。だから、『SICKS』のときはすごく大きいところでやるために作ったわけではないんでしょうけど、結果アリーナ映えする曲が揃っていたのかな。ツアー自体もステージにある程度予算をかけられるようになって、バンドがやりたいことが実現するようになったし、100人ぐらいいるツアースタッフ全員で目的が共有できるようになった最初のタイミングですしね」(大森氏)

「『FIX THE SICKS』のときは入社して1、2年目だったので、当初はついていくのが精一杯。なので、ライブがどうこうというよりも目の前で見ていることが当たり前のTHE YELLOW MONKEYの姿でした。だから、『PUNCH DRUNKARD』ツアーについて暗いとか過酷だとかいう声が多いですが、僕は普通にいいライブじゃんという印象がすごく強かった。もちろん裏でいろいろあったのは知っていましたけど、ステージ上ではそれこそシンプルなロックンロールバンドとして、ホールだろうがアリーナだろうがきっちりやれているという印象がありました」(青木氏)

「バンド的には『野性の証明』ツアーから始まって、アリーナツアー『FIX THE SICKS』、その後の『PUNCH DRUNKARD』ツアーがターニングポイントになったんじゃないかな。その間には、初年度のフジロックもありましたしね」(倉茂氏)

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