尾崎世界観に訪れた大きな“変化”ーークリープハイプ『泣きたくなるほど嬉しい日々に』評
バンドが一応プロとしてなんとか形になって、生活も安定した。でも、オシャレな店や高い店には相変わらず行けない。かといって、これまでどおり松屋とかでメシを食いたくても、「あ、尾崎だ」ってなるからそっちにも行けない。つまり、売れたことによって何かを手に入れたけど何かを失ったんじゃなくて、両方失ってしまったーー4〜5年前にインタビューした時、尾崎世界観がそんなことを言っていたのを、クリープハイプのニューアルバム『泣きたくなるほど嬉しい日々に』を聴いていて思い出した。
って、これだとちょっと例が卑近すぎるか。じゃあえーと、たとえばその『泣きたくなるほど嬉しい日々に』の特設サイトに寄稿された、燃え殻のテキストによると、「武道館のステージに立てば、何か変わるはずだと思ってたんですよ」「ライブの出来は完璧だったんですよ。でも何も変わらなかったんです。気持ちが」と、尾崎は話していたという。大きく言えば、これも同じことを表していると思う。
何を。みじめさや悔しさやむなしさや、後悔や逡巡や迷いだらけの日々から、自分をひっぱり上げてくれる唯一の方法だったはずの「音楽でなんとかなる」ことを現実に成し遂げても、なんにも救われない。小説『祐介』で描いたような、バンドもバイトも女関係も何ひとつうまくいかない暮らしから脱出できたのに、相変わらずみじめさや悔しさやむなしさだらけ、後悔や逡巡や迷いだらけだ。いや、今度はそれが「プロのミュージシャンとしての」みじめさや悔しさやむなしさにグレードアップしているわけだから、さらによけいしんどいかもしれない。
フェスに出てもいわゆる「フェスロック」的な音のバンドのようには盛り上がらない、とか。「なんか人気あるみたいだから」と、何もわかってないくせに権力だけは持っているバカが適当に寄って来てなめたことを言って来やがる、とか。同じように、私生活の面も、何かが劇的に改善されたかというと、全然そんなことはない、むしろ前より不自由でままならなくなっている気がする、とか。
そんなことはいくらでもある。というか、クリープハイプが人の目に多く触れるようになればなるほど、あたりまえに増えていく。でもまあ、そういうのも込みでプロのバンドマンだから、というふうに割り切れるタチではない、尾崎世界観という人は。そういうことひとつひとつに、目をつぶらず、薄目にもならず、カッと目を見開いてまっすぐに対峙してしまう、そういう厄介なピュアさでもって世間と接する人だ、おそらく。
『祐介』を書く前は、バンドをやめようとすら考えていた、でも小説を書くことでなんとかそこから脱することができた、みたいなことを、当時、尾崎のインタビューを読んだら言っていた。そこまで思いつめていたのも、まあ、そういうことなのだと思う。
ただ、前作『世界観』を聴いた時、そんな尾崎が変わり始めているように感じた。そして今作『泣きたくなるほど嬉しい日々に』を聴いて、はっきりと、ああ、尾崎はもう、そこから脱したんだな、と思った。
そういう現実を受け入れた、というと簡単すぎるし、「肯定した」とか「認めた」というのもちょっと違う。「前向きにあきらめた」くらいの感じが、いちばんしっくり来る気がする。