amazarashiは何を伝えようとしているのか? 『地方都市のメメント・モリ』ライブ表現を見て
amazarashiはメジャーデビュー以降も一貫して、バンドの中心人物である秋田ひろむの地元・青森を拠点に活動してきた。この事実は、秋田ひろむの地元・青森に対する思い入れの深さを物語っているように思えるが、彼はかつて、amazarashiの前身バンド・STAR ISSUE以前に結成していたバンド時代には上京も経験しているという。そのバンドの東京での活動がどのようなものだったのかはわからないが、そのときの東京での経験が、結果としてamazarashiの「地元を拠点に活動する」という活動方針を決定づける一因となったことは想像にたやすい。おそらく、秋田ひろむにとっての青森に対する想いは、単純に「地元愛」のひと言で語れるものではないだろう。彼らが去年リリースしたアルバムのタイトルは『地方都市のメメント・モリ』だった。「メメント・モリ」とは、「死を想え」などと訳される言葉である。
6月22日、中野サンプラザにて、『地方都市のメメント・モリ』のリリースツアーの追加公演が行われた。「ワードプロセッサー」、「空洞空洞」、「フィロソフィー」と、アルバムと同じ流れで幕を開けたライブ。メディアなどに一切素顔を公開していないamazarashiのライブは、秋田を含むメンバー5人の姿形は輪郭程度しか見えず、視覚的な面は、洗練された照明演出と、ステージ上のスクリーンに映し出される、演奏される曲ごとの世界観に合わせて強固に作り込まれた映像が大部分を担っている。冒頭、「ワードプロセッサー」演奏時の映像には、おそらく青森の風景であろうか、どこか寂しげな雰囲気を漂わせる公園や団地など、「地方都市」というワードを想起させる景色が映し出された。その映像の中、ポエトリーリーディングのように矢継ぎ早に繰り出される秋田の言葉が、タイポグラフィとなって漂う。
〈シャッター街の路地 郊外の鉄橋 背後霊が常に見張っている〉
地方都市の閉塞感を前提とした言葉だろう。その後、秋田ひろむはこうも歌う。
〈骨をうずめるなら故郷に でも僕の言葉の死に場所ならここだ/十年後、百年後 何かしら芽吹く種子だと確信している〉
この歌詞で〈言葉の死に場所〉として提示される〈ここ〉とは、どこだろうか? わかることは、〈でも〉という接続詞によって繋がれている以上、〈ここ〉とは〈故郷〉ではない、ということだ。では、〈ここ〉とはどこか? 想像できる〈ここ〉とは、その歌が届いた場所のこと、あるいは、歌の中そのもの、ということだろうか。秋田ひろむは、彼の故郷・青森で生きている。しかし、彼が紡ぐ言葉は歌となり、その歌を聴く他者がいる世界の「どこか」へと着地していく。秋田ひろむが絶対的に信頼し、そして追い求め続けているもの。それはきっと、音楽や言葉が「伝わる」ことの力なのだろう。
〈翌日の某コンビニで マシンガンは売り切れ 空洞空洞〉(「空洞空洞」)、〈あのパチンコ店の看板/あれが世界の果てだ〉(「水槽」)、〈バイパスで先輩が死んだ ここ十年毎年死んだ〉(「ぼくら対せかい」)――こんなフレーズが散りばめられている『地方都市のメメント・モリ』というアルバム。ここで描かれる地方都市の景色は、あまりに閉塞感を帯びている。それが、秋田ひろむ自身が青森で生きながら感じてきたことなのだろう。この痛切なリアリズムは、amazarashiの音楽に通底音として鳴り続けているものだと言っていい。しかしamazarashiは、音楽を、言葉を紡ぐことで、そのリアルを突破する。地方都市で生まれた叫びが、祈りが、その都市の閉塞感を超えて、世界のどこかの誰かのもとに届くこと。そして、そこからまた新しい何かが生まれることーーそうした循環に対する希望と確信。それが、amazarashiの音楽の強度そのものになっている。
ここまで、他のアーティストのライブレポートではありえないくらい歌詞を引用しながら原稿を書いてきたが、中野サンプラザという座席指定のホール公演ということもあって、この日改めて実感したのは、「言葉(歌詞)」に徹底して重きを置くamazarashiのバンド表現の特殊さでもあった。先にも書いたように、amazarashiのライブでは歌詞のタイポグラフィも含めた映像が、視覚面での大部分を担っている。観客の目の前には基本的に、常に言葉がある。フォントや大きさを変えながら、時に断片的に、時に一直線に、映像の中に存在し続ける言葉。ダイナミックなバンドの演奏を浴びると共に、そんな言葉が映し出された映像を椅子に座りながら見つめ続けるのは、さながら映画を観ているような気分でもある。
ただ、ひとつ言えるのは、音楽にとって、言葉に重きを置きすぎること、言い換えるならば「意味がありすぎること」は、時に弱点となる、ということだ。何故なら、言葉がもたらす「意味」は、聴き手の音楽の受け取り方を一方向に限定したり、ある形に強制してしまう可能性があるから。トラックは大好きなのに、言葉が邪魔をして、その音楽を上手く楽しむことができない……そんなことを感じたことがある人もいるだろう。もちろん、これは歌詞だけでなく曲名や作品名も含めて、言葉を伴う音楽の全てが直面せざるを得ない問題なのだが、amazarashiの言葉に対する重きの置き方は、かなり特殊だ。過剰といってもいいほどの、言葉の存在感の大きさ。VJのような映像演出はあったとしても、聴き手の目の前に、常に言葉がある……そんなライブは、amazarashi以外そうそうあり得ない。