乃木坂46とけやき坂46の舞台公演に感じた、坂道シリーズ“演劇路線”の新展開

 一方、けやき坂46は対照的に、個々人にクローズアップするのではなく、一群のチームとしての表現を追求する戯曲を初舞台に選んだ。けやき坂46が上演した柴幸男の代表的な戯曲のひとつ『あゆみ』は、主人公の女性「あゆみ」をキャスト全員が入れ替わりながら演じ、主人公の一生分の「歩み」を描いてゆく、独特の方法論をもった作品である。

 1チーム10名の演者たちはそれぞれ特定の登場人物を演じるのではなく、「あゆみ」という女性の人生を綴る各場面においてそのつど主人公を演じたり、あるいは周辺人物を演じたりと、演者と役柄の組み合わせを次々に入れ替えてゆく。その方法ゆえ、演者個々人が際立ったキャラクターを構築することよりも、チームとして一人の人生の輪郭を描いてゆくことに重きが置かれる。

 「あゆみ」の人生として上演される各場面で描かれるのは、誰にでも思い当たるようなごくありふれたエピソードにすぎない。そしてまた、ありふれた人生を描くからこそ、代わる代わる「あゆみ」を演じるメンバーたち一人一人の人生と、劇中世界の人物の人生とを重ね合わせることも容易になる。

 刹那を消費するものと思われがちなアイドルたちの身体を通じて上演することで、すぐれて普遍性をもつこの戯曲の効果は、さらに味わい深くなる。目の前にいるけやき坂46のメンバーたちもまた「あゆみ」と同じく生まれてから老いて死を迎えるまでの一生分のスパンを生きる存在であること、そして今まさに『あゆみ』を上演している彼女たちの一挙手一投足も彼女たちの人生の「あゆみ」の最中であることを、同公演は印象的に浮かび上がらせた。

 際立った個々人の集合であるよりも、群像全体を通じてひとつの大きな造形を描いてみせる表現は、欅坂46が結成当初から楽曲のパフォーマンスで見せてきた強みでもある。「個々人」にチューニングするよりも「方法」にチューニングする『あゆみ』という戯曲の上演は、そんな欅坂46が強みにしている群像としての表現を、一風変わった形で体現するものでもあった。

 ただしまた、坂道シリーズのメンバーの中でも、まだキャリアが若く圧倒的なメディアのスターになる以前の彼女たちだからこそ、『あゆみ』を体現するにふさわしい身体だったともいえるだろう。逆にいえば、すでにグループとしての歴史も長くメンバーを個々として際だたせるための道筋を確立しつつある乃木坂46であれば、『あゆみ』を上演する必然性は薄く、けやき坂46が成したような達成は得難かったかもしれない。

 他方、けやき坂46もまたキャリアを重ね知名度が上がってゆけば、個々人をいかに世に向けてアピールするかが大きな課題になる。それは、ある意味では乃木坂46が歩む道に近づいてゆくことでもある。しかし同時に、初舞台で独特の方法論を経験した彼女たちの身体や発想力が、パフォーマーとしての発展にどのように影響してゆくのか、この先の成長は興味深い。坂道シリーズの舞台演劇路線は今春、新たな展開への入口に立った。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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