音楽家・Sundayカミデはどのようにして作られた? 兵庫慎司がそのパーソナリティに迫る

音楽家・Sundayカミデはどう作られた?

フリーの衝撃──ベーシストとしてのルーツ

 それで引退の前、19歳になる高校3年生の時に……『あし』にも書いたけど、靭帯断裂で、長いことラグビーができなかったんですね。

 で、留年してると規定で出られない大会とかあって、でも最後の大会だけは出られるから、それまでに足の手術をして間に合わせろよ、と監督に言われて。それで、日々とにかく学校とリハビリだけなんで、徐々にベースを練習し始めたりするんですよ。

 その年に、『FUJI ROCK FESTIVAL』が始まったんです。一回目の1997年、台風が来て2日目が中止になった時。そのライブの放送をWOWOWでやってて、Red Hot Chili Peppers、なんとなく知ってたけど演奏してる姿をそこで初めて観て。

 で、すぐフリーと同じベースをローンで買って、そっから何年かはフリーしか聴いてないです。フリーとドラムのチャド・スミスの教則ビデオ、ふたりでずっとセッションしてるやつを買って、それをずっと観て合わせて弾くっていうのを何年間かやりました。

 フリーはほんと、今でも引きずってるぐらいの人ですね、僕にとって。それは音楽っていうよりかは、ある意味、フィジカルなことでもあって。あのスラップって、スポーティなところもあって、それでハマったっていうのもあると思いますね。

 ほんで、ベースがうまくなるにつれて、バンドをやろうやみたいな感じになっていって。同じ歳の友達が、高校を卒業して大学に行ってて。その同級生と、高校のひとつ下の学年の子たちと、4人でバンドを組んだんです。それはもう僕のやりたいことをやるためのバンドで、レッチリをちょっとポップにしたような。

 大阪の、シャ乱Qさんとかがリリースしてた<one coin artists>っていうレーベルに気に入ってもらえて、その事務所に入るのが20歳前後ぐらいですね。

 やっぱバンドって、10代で組んだ時って、みんなで川の字に寝て、誰かが絶対「いつアメリカ行く?」とか言うんですよ(笑)。アメリカでメジャーデビューを視野に入れてやるじゃないですか。

 最初はそのテンションでやってましたね。でもメンバーが……ドラムの子はめちゃくちゃうまいんですけど、ある宗教の人で。僕たちの知らないところでボーカルをずっと勧誘し続けてて。

 で、ギターは、すごい華のある人だったんですけど、人生がすごくて。今はもう……まあ、一般社会じゃない、ちょっとしたアイランドとこっちの社会を、行ったり来たりする人になっていて、僕もたまにしか会えないんですけど。

 で、ボーカルは超イケメンで、だけどメンタルがすごい弱くて。ライブ飛ばして行方不明になっちゃって、それをギターの子と僕で街中探し回ったりして。

 でも今、天才バンドで弾いてるようなベースとかは、その頃に練習して覚えたことだけをしてる、というか。

ビーチバレーに逃避した時期、生死の境をさまよった時期

 そのバンドが解散したのが21歳ぐらいの時ですね。それから、もう音楽はいい、この最強のメンバーでできへんかったらもうええわ、みたいな感じで、「俺明日からビーチバレーするわ」と。

 普通の大学生みたいに、大学に行って、アルバイトして、海に行ったりしたいけど、ただ海に行くだけでは目的がないから。僕、泳げないんで(笑)。それに、音楽に代わりに何かを一所懸命したい、何かないかなって、それでビーチバレーに行ったんですね。それで海に通いすぎて……当時の、色黒の、ちょっと悪そうな大学生ができあがる、みたいな。「こいつおもんないんやろうな」みたいな大学生やってましたね。

 それでね、須磨海岸で、ビーチバレーの大会があったんですよ。それがテレビで放映されるっていうので……たまたま一回戦の相手が芸能人枠のチームで、元巨人の宮本(和知)さんと和泉修さんのチームやったんです。僕たちもインタビューとかされて。

 1週間後にオンエアを観たら、僕がインタビューされてて、その姿がもうほんとにサムくて。髪の毛パーマ当てて、真っ黒で、ドクロのネックレスして、「いやまあ、今年もぅ、いい夏のぉ? 思い出、できましたぁ」とか言うてるんですよ。「きっしょ! やめややめや、ビーチバレーやめや!」って、サッてやめました。

 そのあと、倒れたんですよ。ウィルス脳炎で倒れて、2カ月ぐらい生死をさまよって。あんだけ夏真っ盛りで遊んでた僕が、薄い赤色のカーディガンを着せられて、病院のベッドで寝てることに気がついたんです。「あれ? 3日ぐらい経ったかな」と思ってまわりを見たら、身体が全部、線で機械につなげられてて。2カ月意識不明だったんです。

 ウィルス脳炎の前に髄膜炎になってて、熱も出てて、しんどくて、普通はその段階で気づいて病院に行くのに、僕は身体が丈夫すぎて「なんかしんどいなあ」くらいで、行かなかったんですね。お医者さん曰く「この状態でここに来たってことは、2週間ぐらい40度の熱のままで、意識朦朧としながら、頭おかしくなりつつ生活してたと思います」と。

 それを言われて思い出したのが、僕その頃、家庭教師のバイトしてたんです。英語とか国語を教えてたんですけど、その時だけ急に、「今からアメリカ村の勢力図を教える」って言い始めたりとか(笑)。

 あと、その頃僕がいいなと思ってた同級生の女の子と……その子にきいたんですけど、一緒に海行った帰りに、路上駐車してるクルマ全部に話しかけだしたと。「おい元気でやれよ!」とか「またね!」とか話しかけてて、そういうボケかな? と思いながら見てたら、急に「24時間テレビに募金せなヤバない? 今年まだやん」って言い始めて、袋を持って友達の家を回っておカネ集めて、京橋の募金会場に行って募金してたで、って言われました。それがあって、気がついたら秋になってたんです。

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