松尾潔が明かす、R&Bの歴史を“メロウ”に語る理由「偶然見つけたその人の真実も尊重したい」

松尾潔がR&Bの歴史を“メロウ”に語る理由

 音楽ライターとしてそのキャリアをスタートさせ、R&B界の大御所を次々と取材、近年は作詞家、作曲家、プロデューサーとして平井堅やCHEMISTRY、EXILE、JUJUなどを手がける松尾潔氏が、今年6月に音楽評論集『松尾潔のメロウな季節』を上梓した。90年代の華やかな米国R&B史を、自らのキャリアや取材体験とともに振り返りながら、音楽的史実を綴った新しい音楽評論本である同著について、リアルサウンドで連載『栗原裕一郎の音楽本レビュー』を持つ栗原裕一郎氏が、著者である松尾氏本人を直撃。3時間半に渡るロングインタビューのうち、前編では松尾氏のキャリアや同著を執筆した理由、R&Bに関する音楽書籍がこれまで少なかった背景などを、じっくりと語ってもらった。(編集部)

――『松尾潔のメロウな日々』『松尾潔のメロウな季節』と2冊を拝読した感想を述べさせていただくと……

松尾:恐ろしいですね(笑)。

――とにかく情報量がすごいですよね。日本の音楽評論って、意外と、というかけっこう情報量の少ないものが多くて、いざ資料にしようと思うとまるで使いものにならなかったりすることが珍しくないんですが。

 それは割と歴史的に決定されてきたという印象を持っていて、60年代くらいにまずポピュラー音楽――当時は主に歌謡曲ですが――を論じ始めたのが、思想の科学だったり新左翼の人たちだったという事実があります。彼らはまあイデオロギーありきで論じていたわけです。それから『ミュージック・マガジン』と『ロッキング・オン』の時代になりますけど、90年代には『ロッキング・オン・ジャパン』のような特殊なフォーマットが一人勝ちの様相になってしまったという。

松尾:自慢ではないですが、ぼくは『ロッキング・オン』って一度も読んだことがないんですよ。

――この「リアルサウンド」の編集長は、実は『ロッキング・オン』出身なんですよ。

松尾:そうなんですか! 20年以上も前のことですが、山崎洋一郎氏と海外取材先で一緒になり、ウマが合って何度か飲みました。でもジャンルが違うから、双方ともお互いの仕事をよく知らない(笑)。同じ時代に生きていながら、ロック・ジャーナリズムとは無縁でした。だから本の書き方がよくわからなくて、我流でやったらこういうかたちになってしまったんです。いろいろな人から読後感が小説に近いとよく言われるんですが、自分は小説ばかり読んできたからしょうがないんですね。

――それがこの10年くらいでしょうか、音楽関連書の質が愕然と上がってきて、ひとつには、輪島裕介さんや大和田俊之さんなど優秀な学者のポピュラー音楽評論が出始めたことがあると思うんですね。それから、菊地成孔さんや大谷能生さんが「ジャズ・レコンキスタ」と言って、実作者、実演者の立場から批評に乗り出したことも大きかったと思います。

 松尾さんの本は、情報量も多くてポイントもきっちり抑えられていて、おまけに制作者の立場からでもあり、そうした傾向"以降"のものだなあという感想を持ちました。「小説に近い」というのは、ご自身のことを書いた部分を指しての感想だと思いますが、そういう「自分語り」が伝えられる内容と不即不離になっているのも、音楽評論やジャーナリズムには珍しいタイプですよね。

松尾:書き手であると同時に、証言者、目撃者であるということを、強く自覚しながら本を書いています。その場にいたのは自分だけなのだから、自分が書かなければいけないという義務感や宿命のようなものも感じていました。以前は人前でそういうことを語るのはいちばんカッコ悪いという考えでしたし、自分には単行本のような文化は似合わないとも思っていました。雑誌に書くことをメインにしていましたし、読み捨てられる文章であることに美学を感じてもいたから、昔の原稿や、出演した番組のビデオなども重要なものほど手元に残っていなくて。ジェームズ・ブラウンと一緒に日テレに出た映像とか。今となってはとても後悔しているんですが。

――活字はいかようにも探せると思いますけど、映像は難しいかもしれないですねえ。

松尾:探さないといけませんね。自分のアーカイブスがぜんぜん完成しないので。そのせいで、25年以上も前に行なったインタビューの文字起こしなどをもう一度やり直す羽目になったりして、効率悪いですよね(笑)。

 話が逸れましたが、1次的な情報というか、自分が目撃した情報を書き留めるということは強く意識しています。

――自分がソースであることにこだわると。松尾さんはその点ではやっぱりジャーナリストなんですよね。

松尾:直接取材とか対面取材がベースになっているから、過去に活躍したような人のことも自信を持って書けるんですね。現在の音楽シーンについて書いて欲しいという書籍の執筆依頼も来るんですが、それだと見立て、自分が体験していないことに対する見立てでしかなくなってしまうと思うんですよ。自分自身もきちんとした取材に基づいた本が読みたいですし、取材した事実にその人のイマジネーションがプラスされて語られていれば、そのほうがなお良い。出来事とともにそのときの自分の心情を書くことは、事実に付随したものとして認められますが、実際の発言ではないこととか、目撃していないことから論を構築していくことは自分には向いていないですね。

――妄想みたいな評論というのはよくあります(笑)。

松尾:妄想力が豊かな人もたくさんいますし、そういう人が活躍するマーケットもあるとは思うんですが。

――90年代から2000年代にかけてというのは、言論が全般的に妄想じみたことに説得力を持たせる方向で動いていた時代だったと思うんですよ。たとえば人文学なんかでも、理論を強調しながら、その理論自体が論者が自分勝手にこしらえた妄想の体系だったりとか。まあ、宮台真司なんかまさにそうですよね。

松尾:そもそもが虚構であると。

――虚構の理論で現実をさばいて、その切れ味をアピールするみたいな。ところが2000年代半ばくらいからかな、そういうものへの批判もあって、エビデンスや事実を重視するやり方が強くなってきます。それは各ジャンルに言えると思うんですけど、音楽言説はとりわけその傾向が強かった気がします。最近の音楽ライターに現場主義的な人が増えているのも、その流れかなと。

松尾:たしかにそういう流れに対して自分は素直かもしれませんね。エビデンスにプライオリティを置くということで。

――松尾さんは行動原理からしてエビデンス・ベースですよね。日本人でここまで取材をしてきた人って他にちょっと見当たらないです。

松尾:ただ今後はもうああいう活動は誰にもできないでしょうね。マーケットがあったからそういう取材もできたわけですし。1冊本を書くのに、どれだけ取材にカネ掛けているんだと自分でも読み返して呆れてしまいます。

――もはや音楽業界に限らず、ジャーナリズム全般で取材にカネを掛ける体力がなくなってます。

松尾:ノンフィクションの世界では、本当にお金がなくて大変な状況だとよく言われていますね。

――松尾さんのご本は、80年代から90年代にかけての、日本の景気が良かった時代のモニュメントである、とも言えますね。

松尾:それはぼくも自覚しています。ぼく自身もバブルの頃はエムザとかに入り浸っているような若者でしたが、当時から「終わりのはじまり」というのを感じていました。「今は元禄時代のようなものだな」という感じで。

――ガイのところですね(「われらの時代」『松尾潔のメロウな季節』)。

松尾:そうです。先日、とある事情でセンチメンタルな気分になったとき、これって初めてじゃないぞ、若い頃にも同じような気持ちになったぞと。そういうところは意外に変わっていないんだと気づいて、元気が出てきました(笑)。

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