メロキュア特集Part.3:佐々木敦がメロキュアの核を読み解く
メロキュアの新作に感じる“完璧な流れと繋がり” 佐々木敦が「復活」の意図を読み解く
こちらの方面にはとんと疎いもので、この原稿を依頼されるまでメロキュアの楽曲をまともに聴いたことがなかった。名前は知っていたし、岡崎律子が亡くなっていることもどこかで耳にしていたとは思う。だが彼女たちの作品を纏まったかたちで聴いたのは今回が初めてなのだ。なのでこのレビューを書くには私は間違いなく不適格である。何かの誤解によって話が来たわけではない。アニソン的なるものへの関心をほぼまったく持ち合わせていないことをわかった上での、今回編集協力をされている栗原裕一郎氏からのご指名だったのだが、何故に私に? という疑問は今なお拭い切れない。ともあれ書き始めてはみるが、どうか上のような事情を踏まえてお読み戴きたい。ゆめゆめ「コイツ何もわかってない!」などとお怒りにならぬよう。
ゼロ年代に入って暫くしたあたりから、という気がするのだが、いわゆるJポップと呼ばれているものだけでなく、もう少し枠を広げて、日本語で歌われている曲をあれこれ意識的に無意識的に聴くにつけ、非常にしばしば思うことは、とにかくメロディラインが酷い、ということである。サビだけ聴くのなら、オリジナリティを脇にどかせば、好き嫌いを別にすれば、まあわからなくもないのだが、一曲丸々だと、ほんとうにキツいものが多い。そのキツさは、一言でいえば、メロディが最初から最後までちゃんと繋がっていない、ということによる。90年代以降、日本のポップスは転調や変拍子の曲がやたらと増えたが、多くは楽曲の高度化のせいではなくて、サビだけ先に作ったり、バラバラだったパーツを継ぎ接ぎで拵えた結果の、要は無理矢理によるものである。必ずしも楽理的におかしいとか間違ってるということではなくて(それもあるが)、作曲家が妙に焦っており、そしてリスナーの多くもあまり曲のおかしさを問題にしない、ということによって、ヒットすれば別にいいでしょ的な状況が産んだ弊害であったと思う。そしてその感じは、ゼロ年代以降ますます顕著になっていった。結果として、サビだけ知っていて後で全曲聴いてみたら「アレ?」となったり、途中までは普通に聴けてもサビになった途端に「ええー!」となってしまうパターンがとても多いのである。
これはしかし、よくいわれるような、人類はすでにメロディを紡ぎ尽くしてしまい、新しい旋律が産み出される可能性はもはやゼロに等しい、といったようなこととは少し違う。というか今書いたことはある意味では端的な事実に過ぎないのであって、パクリとかでは全然なくても、自分のオリジナルだと作曲者が思ったメロディはまず間違いなく過去に前例がある。そしてそれはそれで構わない。というか仕方がない。問題は既聴感ではない。それはリスナーのリテラシーによって如何ようにも裁断され得る。そうではなくて、ここで言っているのは「流れ」と「繋がり」のことなのである。たとえどこかで聴いたことがあるような気がしたとしても新しい感じのする曲というものは確実に存在している。