円堂都司昭が「偽ベートーベン事件」を解読
佐村河内守の別人作曲騒動が浮き彫りにした、「音楽」と「物語」の危うい関係
バンドは解散できてもソロ・アーティストは解散できないという冗談があるけれど、「佐村河内守」は解散するのか。『週刊文春』2月13日号の告発記事や、6日に行われた新垣隆の記者会見の報道をみて、そう思った。
広島生まれで被爆二世の全聾の作曲家・佐村河内守のゴーストライターを、新垣が引き受けていたわけである。佐村河内は曲のコンセプトやイメージを新垣に伝える。桐朋学園大学非常勤講師で現代音楽家の新垣は、それを自らの音楽的教養を用いて具体的な曲にした。実態としては2人のユニットだった。そのユニットも、新垣の謝罪会見によって終止符が打たれた。
私は、国内外200のバンドやユニットの解散理由をまとめた『バンド臨終図巻』(2010年。速水健朗、大山くまお、栗原裕一郎、成松哲との共著)という本の執筆に参加したことがある。そこでは、誰が「作曲者」かということが、メンバー間の緊張が高まる理由として散見された。「あいつはアイデアを出さないくせに作曲者のクレジットばかり欲しがる」、「私も曲作りに貢献した」という見解の相違があったり、ある曲の演奏に参加しなかったメンバーが無音を提供したとしてあえて作曲者の一人にカウントされたり。音楽制作の多くは共同作業だから、誰が作曲者を名乗るかは、当事者たちの認識や合意、そして契約で決まる。認識にズレがあれば、争いのもとになる。
「佐村河内守」の場合、佐村河内がプロデューサー、新垣が実作担当の職人という役割分担で当初は二人とも納得していたらしい。彼らが初めからユニットとして活動していれば、問題ではなかった。だが、共同作業の実態を隠したうえで、佐村河内はプロモーションのために苦悩する孤高の天才というキャラ作りに邁進した。これでは詐欺と批判されて当然だ。
バンドやユニットのメンバーが作曲者のクレジットを欲しがるのは、金銭の配分のためだけではない。自分は価値のある人間だと、対外的に誇りたい気持ちもある。自尊心がからむから話がややこしくなる。「佐村河内守」の場合、新垣は名前の出ない裏方の立場に満足していたのに、佐村河内が作曲者である自分の名を高めようとキャラ作りを暴走させたため、2人のバランスが崩れた。佐村河内の聴覚の状態には疑念が出されているし、彼のプロフィールや共同作業の実態についてもこれからいろいろ調べられるだろう。彼らの件がこの先、どう転がるかわからない。