ピクサーの面目躍如は『インクレディブル・ファミリー』ジャック・ジャックの存在にあり?

荻野洋一『インクレディブル・ファミリー』評

 ピクサー社アニメの魅力は、なんといっても「擬人化」ということだと思う。虫の社会もウディ・アレン映画のように世知辛いのだな(『バグズ・ライフ』)、バケモノたちも会社のノルマと昇進競争にストレスを感じているのだな(『モンスターズ・インク』)、海を自由に泳ぐ魚も若年性認知症で右往左往するのだな(『ファインディング・ニモ』)というふうに、人間の社会生活の断面を、人間とは異なるモノたち(それは『トイ・ストーリー』のおもちゃたちのように、生き物である必要すらない)があざやかにかすめ取り、模倣してみせる。私たちの日々の悩み、日々の失敗談を、非人間が反芻してみせる。そうしたカタログがどんどん増殖するのがピクサー社の十八番であったわけだ。思えば、私たち人間にしたところで、十全に人間としての生を完璧にやり遂げているかといえば、まったく心許ないわけだから、ピクサーの非人間的モノたちによって私たちの生活信条やら世相やらが盗まれたことに、小気味よい快感をもたらされてきたということなのではないか。

 前作『Mr. インクレディブル』から14年もの歳月が経過して、ふと思い出したように続編『インクレディブル・ファミリー』ができあがってきた。かといって1作目の14年後の物語というわけでもない。今回の第2作はあたかも長い空白などなかったかのごとく、前作のラストシーンから再開してみせる。実写の世界ではシリーズも長期化するうちに、「ウルヴァリンもずいぶんしょぼくれてきたぞ」とか「ブラック・ウィドウもだいぶオバサンになってきたわね」とか、そういうおせっかいな印象で観客があれこれと気を揉むことになる。そうした時間概念の不在は当然、アニメの強みだと言える。監督のブラッド・バードは言う。「僕はいつも頭の隅で(続編について)考えていたんだよ。だけど、他のことが頭のもっと大きな部分を占めていたんだよね。そしていつしか14年が経ち、“やばい! もうやらなきゃいけないぞ” と思ったというわけ(笑)。(時間がかかったのは)意図的ではないし、計算の結果でもない」。(劇場用プログラムより)

 ピクサー社の第6作として作られた『Mr. インクレディブル』(2004)は、同社初の人間を主要キャストに据えた作品として話題をあつめた。同社第1作『トイ・ストーリー』(1995)でおもちゃを主人公に据えて以来守られてきた、人間とは異なるモノを扱うという伝統が、製作業務開始10年目にして途絶えたということになる。『Mr. インクレディブル』の発表当時、人間が主人公であることに対して少なからぬ違和感の表明が見られた。いわく「これでピクサーも普通の会社になってしまった」というような。ただひとつ補足するなら、『Mr. インクレディブル』はもともとピクサー社の企画ではなかった。ワーナー・ブラザース社のアニメ部門閉鎖にともなって、同社で製作予定だった『Mr. インクレディブル』は中止となった。しかし、監督のブラッド・バードとはカリフォルニア芸術大学で同窓だったジョン・ラセターの誘いがあり、『Mr. インクレディブル』の企画はピクサーに引き取られ、大学同窓のよしみのおかげでオクラをまぬがれた格好だ。

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