菊地成孔の『溺れるナイフ』評:映画は漫画の巨大なノベルティと化すのか?

『誰が音楽をタダにした?』

 今年、フォーブス、タイム、ワシントン・ポスト、FTといった、一流どころの「年間ベストブック」に軒並み選出された、化け物のようなノンフィクションがある。

 スティーブン・ウィット著『誰が音楽をタダにした?』(関美和訳/早川書房)は、あらゆる世代の、あらゆる人々が、「横目で、ちょっとどうかな?と見つめていながら、どうすることも出来なかった現象」に関して、徹底的な取材と斬新かつ誠実な選球眼により、「音楽が無料で入手出来る」という現状を構成する100%総ての要因を網羅し、しかも極上のミステリー小説のように読ませ、先行類書としての『CDは株券ではない』、『FREE』、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』、『21世紀の資本論』等々を一撃で吹き飛ばした。

 今やユースは、デジタルコンテンツに関して、料金が発生するとは思っていない。今後それは変わるのかもしれないし、変わらないのかもしれない。変わるとしても、どう変わるか全くわからない。はっきりしているのは、企業体としての「レコード産業」も、アートとしての「レコード芸術」も、ちょっとだけ先祖返りした、という事だ。

 とはいえこの本の結論は、そう簡単なものではない。今から述べる事は、ウィキペディアで、レコード盤について、ビートルマニア現象について、LPレコードが「アルバム」と呼ばれながらも、一種の長編小説や映画作品として認識された一時期について検索すれば、中学生にだって書ける論文の結論である。

 古来、宗教儀式の供物としても、19世紀以降の大衆娯楽としても、そもそも音楽は実演を鑑賞する対象であり、ショービジネスの有力者であり、エンターテインメントの実力者でもあった。

 資料人類学の重要な道具でもあった、録音機材の発達から生まれた、最初期の「レコード盤」は、大衆音楽と結びつく限りに於いて、とするが、音楽の本懐である、実演を鑑賞してもらうためのポップであり、ノベルティグッズであり、音の出るフライヤーのようなものであった。つまり無料である。

 が、故に、大衆音楽のレコード盤ごときが、「レコード芸術」を自称し、たかが音楽の実演家は「アーティスト」などと呼ばれ、「著作権」という、書物に付与された権利までを拡大解釈的に援用して、音楽は、実演と録音物(実演の記録ではなく、独立した)とのバイウエイを持つ特殊な産業として、20世紀の中盤をピークに隆盛を誇るも、現在、「いろいろあった末に」やがてまた無料化という先祖返りを起こしているのだ。

 現に、実演を特殊な環境(近世のヨーロッパでは「劇場」)で鑑賞する、という、もう一つの先祖返りとして、フェスの客は、毎年3倍増しているし、無料ならなんでも良いか?というドラスティズムに対して、マーケットはアブソリュートリー・イエスとは決して言っていない。

 一時期、一瞬流行った「フリー・コンサート」は、コンサート事業のメインには躍り出ていない。「なんでも全てが無料」というのは、幼児の夢想する幼稚なユートピアに過ぎず、人類はやはり(ここでは逆説的に、だが)パンのみに生きるにあらず。なのである。

 繰り返すが、『誰が音楽をタダにした?』は、こんなシンプルな結論でことを締めくくらせてはくれない。しかしながら、「元来、タダだったものが有料化したのち、産業化する(あるいはその逆)」という過程があるならば、その逆転としての先祖返りが起こるのは、絶対とは言わないが、ありうるうることだと、21世紀は証明した。

 「そんなん、デジタルコンテンツだけでしょ。<誰が音楽を>にも、そのことは明確に描かれているでしょうが」等というのは早計である。ネットでの炎上見物が有料になる日が絶対来ない、とあなたは言い切れるだろうか? Amazonのユーザーズレビュー1回10円課金、と言われたら、あなたは即座に一切のレビューを止めるだろうか? 文句を言いながらも続ければ、その集積は産業となる。

「漫画原作」という特殊事情

 巨大スクリーンで、課金して鑑賞する「映画」は、書店や漫画喫茶でタダ読みでき、その気になれば掌中に収まる事から、万引きの対象でもあり続けている「漫画」よりも遥かにゴージャスな巨大産業に見える。しかし、いかな日本映画が今年、バブルと称されるほどの好景気を見せようとも、漫画産業という、ゲームやSNSを含む通信と並び、我が国の国是といって良い巨大産業に比べれば、屁のツッパリ程度の位置にあることを、我々日本人は熟知している。

 それにしても、まだ映画は、無料になる兆しすら見せていないようである。しかし、以下のような補助線を引いたら、あなたはどう思うだろうか?

「ある時、全ての日本映画は、連載中の漫画原作でしか製作できないという法律ができた」

 こうなると日本映画界は、日本漫画界のノベルティ産業の位置が固定される。「原作漫画を10巻分買うたびに、映画化作品が無料で観れる」という法螺話は、ゲラゲラ笑ったり、不機嫌そうに横を向いたりさせる荒唐無稽だろうか?

構造的な「長い」原作

 「小説」が「漫画」よりもはるかに高い地位を誇っていた時代から、「膨大な長期連載が一本、乃至、数本の映画になる」ことに、我々は慣れている。

 断続的とはいえ五木寛之の『青春の門』は実質12~3年間の連載に対し、映画が4本だけ製作されたし、中里介山の『大菩薩峠』は約30年の連載が、映画としては制作会社別に二部作、三部作、三部作、三部作、一作、と累計数こそ多いが、全連載を分割しようとした『青春の門』とは違い、『大菩薩峠』は基本的には等しく網羅的な脚本によって、制作会社と監督が違うだけのカヴァーバージョン集である。

 その後、「長期連載」は文学よりも漫画の世界のデフォルトとして君臨するようになるが、昭和期の『あしたのジョー』『愛と誠』などは、『伊豆の踊子』や『藪の中』のように<映画化にちょうど良い長さの原作>が映画化される事よりも、低く見られていた。

 そこには、「映画としての完成度」というフェアな批評ではない、一種の差別構造が働いており、第一にそれは、文学のが漫画より権威があった。というのはいうまでもないが、筆者はこうした、第一義的な現象よりも、特に今回は、とするが、潜伏している現象に目を向けるべきであると考える。

 それは、「どうせダイジェストになるだけ(物語の壮大な世界観はあらかじめ損なわれている)」という視点が張り付いていたという点である。

 『青春の門』や『大菩薩峠』の映画化でこの視点が余り顕在化されず、「あの膨大な世界観をどう映画化するか?」といった、いわば好意的な視点/言説で扱われていたという事実は、「文学のが偉い」という権威構造によるものだったとして間違いない。しかしそれでも、好意的な権威主義者の心の奥にも、<長編小説の映画化>が、若干の色物であるという差別心は拭いきれなかったと思われる。

 <二時間の映画には二時間の原作を>という、一見あたりまえのようだが原理的にはありえない設定が、安定的な本道としてまかり通った、という現象の不思議さは、もともと実演に誘導するためのノベルティグッズに過ぎなかったレコードが、独立して作品化するという現象の不思議さと同根であると筆者は直観する。

 我々は一体、<長期連載のダイジェスト映画化>と<中編小説(漫画)の、等尺の映画化>と、どちらが観たいのであろうか?というよりも、双方を全く同じものとして捉えることができるだろうか?「あの膨大な原作を、見事に脚本化している」という賞賛を、我々は年間に何回聴くであろうか?文学と漫画という二項対立に権威構造が働くなった現在、我々はさらにダイレクトに<原作の尺と映画の尺>について問われている。

 そしてそこに未だ、差別的/権威的な構造が残っているとすれば、それは<ダイジェスト化されているものは、低い>=<基本的に無料方向ーノベルティグッズなのでーにベクトルが向いている>という点のみであることを筆者は指摘したい。

 これが前述の「映画の原作が漫画だけになった時、映画は無料化する」という筆者の仮説とつながっているのはいうまでもない。

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