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映画とは爆薬の上に牛の体内物質を塗りつけたものだーー岡田秀則著『映画という《物体X》』書評

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 映画とは何か? 映画とは◯◯である。そんな問いかけと返答が、映画が生まれてこのかたどれだけ繰り返されてきたことだろう。潜在的にはこれまで映画を見たことのある観客の数だけあったとしてもおかしくない無数の答えの中には、映画というメディアのもたらす快楽に満ち溢れたものもあるだろうし、映像による記録という営みへの敬意に満ちたものもあるだろう。ある種の諦念が滲んだものもあれば、あんな映画を一緒に見たせいで恋人と別れた、なんて憎しみに染まったものもあるかもしれない。

 本書のタイトル『映画という《物体X》』は、一見、そうした無数にある「映画とは〇〇だ」式の答えに付け加えられたもうひとつの返答のようにも見える。「映画とは物体だ」。世紀をまたぎ10年余り、100年以上の長きに渡り映画の上映素材といえばそれであった35mmフィルムが、HDDからDCPのサーバに移されるデジタルデータへと主役の座を譲った現在に、それでもやはり映画は物体に他ならないのだと、「映画アーキビスト」である著者がそう断言することには、少なからぬ重みがある。

「フィルムが積まれた場所には、やや殺伐とした空気や、非日常的な光景だけにやや神秘的な気分も漂っている。だが、その先にもう一つの愛情を感じられる瞬間がふと訪れる。つまりこの時、一つ一つの映画が面白いというより、”映画”と名づけられたこの体系全体に愛着を感じている」(本書引用p21)

 私たち観客が普段目にすることのない、銀色の缶に入った無数の映画のフィルムがうず高く積まれた光景と日常的に接する著者だからこそ、いま改めて「映画は物体だ」と断言することの意義は生まれるとも言える。

 だがその一方で、「映画とは物体だ」という断言がこの本の魅力のごくごく一部を紹介することにしかならないのもまた事実なのである。むしろ、この本の魅力のほとんどは「物体」につけられた「X」という変数にこそある、とすら言えるかもしれない。言うまでもなく『遊星からの物体X』から採られたことは疑いようのない《物体X》というこのフレーズだが、しかしこの変数の存在は決して伊達ではない。

 映画はかつてフィルムという物質に記録されていた。それはなんとなく知っている。そのフィルムという物質は、かつて硝酸セルロースという「爆薬」で出来ていた。それもタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』で見た気がする。そのフィルムに塗られる乳剤は、牛の皮や骨からとられたゼラチンで出来ている、つまり「映画とは爆薬の上に牛の体内物質を塗りつけたものだったわけだ」。……そこまでくるとさすがにへええ~と呟かざるをえない。

 そんなふうに、こいつにはこんな面もこんな面もあるんですよ、と矢継ぎ早に紹介される《物体X》は、もはや「物体」という無機質な無生物というよりも、変幻自在な、なんだか奇妙ではあるがどこか愛らしい珍獣だったり妖怪だったりするようなものに思えてくる。そんな《物体X》を著者である岡田さんは「噛みつかないからもっと近くでよく見てごらん」と紹介するかのようである(もしかしたら、「噛まれると一生残る傷になるけどね……」とほくそ笑んでいるのかもしれないが)。

 そうやって読み進めていく本書の後半で、映画のチラシの一枚一枚がそれ自体ひとつの映画のような扱いを受け、未だ現役で活躍するカーボンアーク映写機に歴史的な価値やノスタルジーを超えた愛着が込められているのは、もはやなんの不思議もないことだ。巻末の蓮實重彦との対談の中に出てくる、ラオール・ウォルシュが手で作った拳銃でシネマテークの観客全員を「バンバンバン」と撃ったというエピソードが、それ自体映画のひとコマのように思えてしまうのもまたなんの不思議もないことだ。映画は無数の物体によって出来ている。だがそれだけではない。映画を構成する一つ一つの細やかな物体が、それ自体ですでに映画なのだ。

      

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