スピルバーグ新作『BFG』が描く“映像と言葉”の狭間ーーソフィーの夢はなにを意味する?

『BFG』が描く“映像と言葉”の狭間

 『E.T.』のスピルバーグとあのディズニーが贈る巨人と少女の物語。予告編を見ていてもそのくらいの情報しか伝わってこないのだが、この組み合わせを受けて、よしこの映画で“夢”を見に行こう、などと思ってもそれは無理な話だ。『BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』は夢を見る映画ではないから。この映画では、“夢”は見るものではなく聞くもの、その微かな囁きに耳を傾けるものだからだ。

 「おれが言うつもりのことと、おれが言うことは、いつも違ってしまう」。やさしい巨人BFGはそんな内容の言葉を、たしか二度ほど口にする。より直訳風に訳すなら「おれが意味すること(what I mean)と、おれが言うこと(what I say)とは、ふたつの異なるものだ」、そう言っている。その言葉を発する直接のきっかけは、人間界から連れ去られてきた少女ソフィーが、なんだか彼の言葉遣いがおかしいと指摘するからである。人は「人豆=ヒューマン・ビーン」ではなくて「人間=ヒューマン・ビーイング」だ、とか、さまざまな動物や野菜の呼び名がおかしい、とか、彼女が指摘するのを受けて彼は上記のように返す。

 言うつもりのことと言うことが違う、つまり言葉の意味と言葉の響きが別のものになってしまうというBFGの嘆きは、文字で書かれたロアルド・ダールの原作においては特に疑いもなく了解することができる。例えば映画では省略された人喰い巨人のセリフには、「チリの人豆(チリ・ビーンズ)が喰いたい。チリの豆はエスキモーの次に冷たい(chilly)からだ」というようなものがあり、そうした意味と響きが横滑りして重なり合うような言葉遊びがふんだんに盛り込まれているからだ。

 それに対して、映画版における件の言葉がどこか引っかかりをもって聞こえてしまうのは、そういう言葉遊びが省略されている箇所が多いからというよりも、そもそも観客としての我々にはBFGが言うつもりでないことを言っているようにはまったく見えないからだ。

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 物語の最後まで、BFGがソフィーに対して心にもないことを言ったり、誤った言葉遣いによって彼女を傷つけてしまうようなことは、一度たりともおこらない。もっと言えば、ソフィーがおかしいと指摘するものの呼び名でさえ、BFGが意図したものと彼が発した言葉との間で食い違いが生じているようには思えないのだ。たとえば「お化けキュウリ」なる野菜ならば、彼がまず奇怪な発音でその名を呼び、ついでグチュグチュネバネバした「お化けキュウリ」の映像がこれがそうなんですよと提示されるのを見ると、それが本来のキュウリ=キューカンバーとどこがどう違うかなどと考えるよりまず先に、ああこれがそうかとすんなり受け入れてしまう。言葉の響きとして聞こえたものの後に、指示された対象が映像として映し出されるとき、BFGが言うような両者の間の違いやズレをほとんど意識せずに見てしまえるのである。

 にも関わらず、原作通りに発せられるBFGの言葉は、彼が言葉というものをうまく扱えないことを示すというよりも、むしろ彼が言葉の響きに対して人間たちよりはるかに繊細な感覚を持ち合わせていることを示している。あの巨大な耳は伊達ではない。特に違和感なく合致しているように感じられる言葉の響きとそれが意味する映像との間にさえ、それでもなお決して埋め得ない溝が存在することを彼は聞きとるのである。

 BFG風に言うならば、「映像と言葉は、ふたつの異なるものだ」。もしこの映画の中で唯一、言葉とそれが指し示す映像が明らかにまったくかみ合っていないように感じる箇所があるとすれば、それはBFG本人とその呼び名に他ならない。「ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」、そう初めて彼が名乗るとき、ソフィーも観客たちも既に彼の体が他の巨人たちと比べて全然「ビッグ」じゃないこと、むしろかなり小さいことを知っている。しかし本人はそれをまったく気にする様子もなく、その名前をつけてくれたのが、ソフィーより前に巨人の国にいたひとりの少年なのだと告げる。BFGが救うことのできなかったその少年の存在が彼の心に暗い影を落とす業を背負わせていることは、物語が進むにつれて明らかになっていくが、BFGは少年のつけてくれた名前とともに「映像と言葉は、ふたつの異なるものだ」という業をも負って生きている。

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