黒沢清はイメージの狂気の中を彷徨っている 荻野洋一の『ダゲレオタイプの女』評

荻野洋一の『ダゲレオタイプの女』評

 黒沢清がフランス映画デビューした。この事実に驚く人間は、この世界中で誰ひとりとしていまい。もはや国際的名匠の仲間入りをしている黒沢清がいつどの国のプロデューサーから依頼を受けて映画を撮ろうと、まったく意外ではないからである。事実、トニー・レオンと前田敦子の共演で日中合作『一九〇五』がもう一歩のところまで実現しそうだったし、この『ダゲレオタイプの女』にしても、もともとはイギリス映画として企画され、その際は陽の目を見なかったものだという。もし数年前にイギリス映画として撮られたならば、本作はジョゼフ・ロージー作品のような異常にいびつな城館映画となったことだろう。

 この映画がフランスで撮られたこと、そして黒沢清が国外デビューをフランスで果たしたことを、心から祝福したいと思う。なぜなら、フランスは写真術を発明した国であり、映画を発明した国だからである。タイトルにあるダゲレオタイプとは世界最初の写真技術で、ダゲールが1839年に発表した。動く写真術である映画(シネマトグラフ)はそれから56年後の1895年、やはりフランス人のリュミエール兄弟によって発明された。黒沢清は、写真と映画の母国フランスで映画をつくる機会を得るにあたり、この発明時代の黎明へと遡行していこうとしたのかもしれない。

 写真術の黎明へと遡るという行為には、どこか過去の心霊を呼び戻すかのようなまがまがしさが伴ってくる。じっさいこの映画には、本物の心霊が写ってしまっているのだ。こんなおそろしいことになってしまった以上、黒沢清のフランスでのデビューを、私たちは祝福する以外にいったいどうすればいいというのだろう? この目で見てしまった心霊を、見なかった振りはもうできないではないか。

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 冒頭からしてこの映画には、古風な美と、それに付随する呪いが、あたり一面に漂流している。永遠の美と引き換えに、いっさい払拭されることのない呪いである。すでに滅んだダゲレオタイプの銀板写真術を再現することに情熱を燃やす年配の写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)のもとに、ひとりのフリーター青年ジャン(タハール・ラヒム)が助手として訪ねてくる。工事現場と廃墟に囲まれた、パリ郊外のどこかの屋敷。エドガー・アラン・ポーの怪奇小説を映画化した『アッシャー家の末裔』(1928 監督ジャン・エプシュタイン)は最初期のフランス・ホラーだが、このサイレントフィルムからして青年がひとつの屋敷を訪ねてきたではないか。霊が甦るには、誰かが屋敷に到着する必要がある。黒沢清は、アッシャー家のパンドラの箱を開けてしまったのだ。

 不吉なのは、このジャン青年がやたらと物を落とす癖の持ち主である点である。ジャンは屋敷での初日、写真家ステファンから見せてもらったダゲレオタイプについての紙資料を床に落とす。すぐさま彼は紙を拾い上げて雇い人に返すのだが、彼はパリ市内のアパルトマンに帰宅した際にも、玄関の鍵を落とす。物を落とす人間とは、つまり逆の見方をすると、物を落とすたびに拾い上げる人間だと言うこともできる。この、落とした物を拾い上げるという動作が、この若き主人公を、逃れられない悲劇へといざなうことになるだろう。

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 ストーリーの詳細についてはもちろん触れないでおくが、ラスト近くでジャンはある物を拾い上げる。それは彼によってひとつのリング(円環)に変形される。リング——そう、私たちが生きているということは、円環におけるリーインカーネション(輪廻)から逃れられない運命にあるということだ。ジャン青年は、拾ってはいけないものを拾い上げてしまったのだ。悪夢の始まりはそもそもいつだったのか。ジャン青年は、階段から落ちた女性(小津安二郎のなかでもっとも不吉な作品『風の中の牝雞』(1948)のように女が階段から転げ落ちる!)の体を抱き上げる(拾い上げる)。ジャン青年は、生きているのか死体なのか判然としない女性の体を車に乗せ、病院に搬送しようとするが、なぜか女体は車から転落する。ジャン青年は、哀れなまでに物を落とさずにいられない性質の持ち主なのである。

 『ダゲレオタイプの女』において、撮影モデルをつとめる女性たちがグロテスクな器具で拘束され、1時間におよぶ露光時間のあいだ静止することを強制される。バカバカしいほどに巨大なダゲレオタイプという装置、グロテスクな拘束器具。装置や機械、器具というのはまさに黒沢清のこれまでの作品群を彩ってきた小道具たちであり、それは異界へ囚われていくためのスイッチであった。しかし、囚われているのは、器具によって拘束された女性たちではない。真に囚われているのは、女性の永遠の美に苛まれている男たちのほうである。カメラという装置の肥大ぶりがもっともグロテスクである。それはあたかも映画作家の、撮影行為というものに対する欲望の肥大がそのまま露呈してしまったかのようだ。

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