>  > 宮台真司がキム・ギドク初期3作を考察

宮台真司の月刊映画時評 第6回

宮台真司の『キム・ギドクBlu-ray BOX初期編』評:初期3作が指し示す「社会から遠く離れた場所」

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痛みによって呑気な空想を爆砕する

 今回は、『キム・ギドク Blu-ray BOX初期編』に収録された『魚と寝る女』(2000年)、『受取人不明』(2001年)、『悪い男』(2001年)の3作品を取りあげて、キム・ギドク作品の共通したモチーフと、とりわけ初期作品に見られる特徴について、詳しく論じたいと思います。

 キム・ギドクは、すべての作品において「激しい痛み」というモチーフを反復します。その理由について、僕は本人に直接訊ねたことがありました。仕事の席だったか、飲みに行った時だったかは忘れましたが、彼は次のように答えました。

 第一に、激しい体の痛みは誰にでも分かる。第二に、痛みは呑気な空想から人を目覚めさせる。第三に、痛みは観客を否応なく日常から剥離させる。第四に、だからこそ観客は拒絶反応を起こすが、それでも画面から目を背けない観客は自動的に“ギドク界”に巻き込まれる。

 つまり、ギドク作品における激しい痛みの描写は、観客に対する巻き込み装置・兼・スクリーニング装置になっているのだという訳です。しかし、こうした装置としてだけでなく、僕が見るところ、激痛描写にはギドクの映画的な主題にかかわる、重要な機能が与えられています。

観客を社会に着地させない通過儀礼

 ギドクが言う通り、激しい痛みは、矛盾や規定不可能性を隠蔽する<社会>の空想を、木っ端微塵にしますが、そのことで、連載で述べてきた通過儀礼図式ーー日常から離陸し、カオスを体験し、別の場所に着陸する」という構造ーーにおける離陸の段階を構成するのです。

 離陸した観客は、カオスを経て、ギドクが狙った場所に着陸させられます。但し、通過儀礼図式を使う多くの作品ーー日本なら『赤い殺意』以降のピンク映画や昼メロがーーが成長モチーフなのとは違い、ギドク的な通過儀礼の着陸面は<社会>から遠く離れているのです。

 その意味でギドク作品は黒沢清作品に似ますが、<社会>から離れた場所に観客を着陸させる際、どこに着陸するのかを「痛み」で制御するのがギドク流です。肉体的「痛み」は言語の外にあり、だから動物も「痛み」ますが、強烈な「痛み」ゆえに登場者も観客も<社会>に着地できません。

 <社会>は言語的に構成されたシステムです。<社会>をうまく生きられるということは、言葉を喋れることです。『魚と寝る女』『悪い男』に見るように、ギドク作品の登場者は喋れない。喋れない代わりに、生理的な「痛み」だけを共有する。観客も「痛み」の共有を強いられます。

言葉を失った者が社会の外で繋がる

 かくして登場者相互と観客は、言語によって構成された<社会>の外で「繋がり」ます。そこは<社会>を生きられない者たちの共同体です。僕は“ギドク界”と呼びます。ギドク界の住人が<社会>を生きられないことは、彼らが目的のために選ぶ手段の、荒唐無稽ぶりによって、示されます。

 『魚と寝る女』であれば、女は逃げる男を引き留めるべく、男の舟に結んだ糸の端の釣り針を自らの性器に刺すでしょう。『悪い男』であれば、男(ハンギ)が、愛する女子大生(ソナ)を自分に縛り付けるべく、苦界に落とす(娼婦街に監禁して恥辱を与える)でしょう。同じ構造です。

 『受取人不明』でも片目が見えない女子高生が、目を治すべく、彼女に欲情する米兵に体を委ねるでしょう。どれも目的に対して手段が理不尽で、手段を行使する本人に激しい「痛み」を与えます。ギドク界の住人は、目的を達するべく、「痛み」を通じて<社会>を離脱するのです。

 こうした説話論的構造は、ラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』(1996年)にも似ます。同作では、夫への愛を証すべく、妻は夫の望む淫売に乗り出します。「愛を証するための、不特定者相手の淫売」という手段の荒唐無稽ゆえに、妻は<社会>を放逐され、最後は野垂れ死にます。

片輪的オブジェに縋るギドク界の住人

 <社会>には秩序がありますが、通過儀礼を通じて<社会>の外に連れ出された者は、<世界>のデタラメに身を開きます。<社会>を生きる際に用いてきたファンタズム(空想)を粉砕されたギドク界の住人は、<片輪的オブジェ>つまり或る種の特異点に縋ります。ギドク界の摂理です。

 『悪い男』では、ハンギがソナに縋り、やがてソナもハンギに縋るでしょう。『受取人不明』であれば、混血児チャングクの母が、朝鮮戦争に従軍した米兵(元夫)からの手紙(言葉)に縋ります。しかし、縋る者は、それゆえ裏切られ、ますます<世界>のデタラメに直面するのです。

 『奇跡の海』がそうであるように、ギドク作品には、「<世界>の底でデタラメを体験した者に福音あれ!」という、激しい祈りがあります。ギドクはかつて牧師になるために勉強をしていました。言うまでもなく、<世界>の底で最も激しいデタラメを経験したのは、イエスその人です。

 これも『奇跡の海』との共通点ですが、「最も罪深き者ーー罪深くある以外になかった者ーーにこそ福音が訪れよ!」というキリスト教的な意味論を、絶えず反復するところが、非常にキム・ギドク的です。誰も指摘しないことだけれど、ギドク作品は「全てが」キリスト教的なのです。

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