宮台真司の月刊映画時評 第6回
宮台真司の『キム・ギドクBlu-ray BOX初期編』評:初期3作が指し示す「社会から遠く離れた場所」
ギドク作品に反戦映画も恋愛映画もない
『受取人不明』を、反戦映画だと受け取る向きがありますし、『魚と寝る女』と『悪い男』を、ギドクには珍しく、分かりやすい恋愛映画だと受け取る向きもあります。しかし、はっきり言っておきます。反戦どうたら、真の恋愛こうたらは、ギドク作品には関係ありません。
戦争映画も恋愛映画も、<社会>を呑気に生きられる人々のファンタズムを前提にします。例えば、ただのショボい集団を「崇高な国」と見做したり、ただのショボイ相手を「運命の女」と見做したりすること。連載では、前者を政治ロマン主義、後者を性愛ロマン主義と呼びました。
ギドクからすると、<社会>を呑気に生きられる人々のファンタズムを前提とする映画は、クソです。但し、戦争も恋愛も<社会>に於ける非日常的カオスで、<社会>の限界領域を指示するから、ファンタズムを壊す道具として使える。戦争や恋愛が使われるのはそれだけの理由です。
また、ギドクは監督デビューの最初期から、社会への怨念に満ちた作風が取り沙汰され、韓国の「恨(ハン)」の伝統を継いでいるとも言われて来ました。はっきり言っておきますが、それもまったく関係ありません。既に述べた通り、普遍的な説話論的構造にこそ特徴があります。
恨の伝統云々と解釈されれば、作品がパッケージされて消費されやすくなるから、ギドクとしては都合がいい面もあるでしょう。でも、ギドクの普遍的モチーフは飽くまで、「<社会>は大概うまく回っていて、一部に故障がある(から直そう)」という観念への違和感にこそあります。
「恋愛」「戦争」「国家」は呑気な空想である
彼は極貧層の出身で、お金がないから徴兵後に旋盤工から兵隊になり、実戦部隊に配備されました。その後パリに渡り、言葉が喋れないのにストリートに座り込んで絵を売っていました。その意味では、ギドクが<社会>をうまく生きられたことがない存在であることは事実でしょう。
『悪い男』の女子大生ソナは、自分は<社会>をうまく生きている「と思える者」の典型で、冒頭に描かれる彼女の恋愛ゲームが、若い頃のギドクには手が届かない贅沢品だったのも本当です。恋愛や学問や仕事に没頭でき、<社会>に実りがある「と思える者」は、彼にとっては異族です。
でも、それだけなら、彼の映画は個人的怨念を表出した凡庸な社会派作品になります。実際は違う。彼の映画は、「痛み」を用いた説話論的構造を用いて、「これが恋愛だ」「これが戦争だ」「これが国家だ」等の認識が「誰にとっても」ファンタズムに過ぎないことを描いた、普遍的作品です。
言い換えるとギドクは、当連載『FAKE』評(http://realsound.jp/movie/2016/05/post-1637
.html)に引きつければ、「頑張れば報われる」という類の、<交換>バランスで成り立つ<社会>なるものが、ファンタズム(空想)に過ぎず、そもそもまったくあり得ないことを確信しています。
だから、<社会>が<交換>バランスの上に成り立ち得るーーその意味で完全な理想社会があり得るーーなど「と思える」人間は、ギドクからすれば、単に鈍感という以上に、真理をねじ曲げる敵です。そうした敵が、「結果として」社会的疎外に喘ぐ底辺層を放置したりもする訳ですね。
再確認すると、上流や中流に対する階級的怨念を抱いて攻撃的になっているのではない。たとえ下流の者であっても普通に<社会>を生きる際には抱きがちな、「国家」「戦争」「恋愛」の類の呑気なファンタズムに対して、攻撃的になっているのです。そうした構えは実は珍しいものです。
珍しいと言いましたが、クリント・イーストウッド監督に見られます。事程さように、主意主義的=<ギリシャ的>=右翼的です。主意主義者から見て、主知主義的=<エジプト的>=左翼的なものは、いつも「神」や「理想社会」といった<交換>バランスのファンタズムに塗れています。
ファンタズム(空想)が社会とパーソンを回す
ファンタズムという言葉を説明します。僕らは「日本はある」「東京大学はある」と思っている。でも本当にあるのかを問われても証明できない。証書や証人を呼び出しても、「FAKEかも?」という疑念を論理的に退けられない。疑念を拭うべく別の証書や証人を呼び出しても、無限退行する。
現実あるのは、“皆が「日本はある」「東京大学はある」と思っているはずだ、と自分は思う”、という空想(ファンタズム)だけ。因みにフロイト=ラカンは、そうした空想を自明に抱けるように育ち上がる条件は自明ではないとして、この非自明性を埋める「父(の名)」の機能を見出します。
社会学にも[フロイトの「ファルス=母親の欲望先」⇒ミードの「一般的他者」⇒ルーマンの「任意第三者」]という形で、事実上「父の名」(ラカン)の概念の相当物に注目する学問伝統があります。僕は、そうした伝統の上に成り立つ社会システム理論というディシプリンにコミットしています。
この伝統に従えば、「国家」や「国家間の戦争」なる概念だけでなく、ルーマンが言うように「相手との融合としての真の恋愛」どころか「言葉が伝わる」「感情が共有される」といった理解も、全てファンタズムです。こうしたファンタズム抜きに<社会>を生きられず、<社会>は回りません。
「神は最後に救って下さる」は永久にない
話を戻します。ギドクの考える<社会>の現実には、一方的な<贈与>と<剥奪>があるだけで、<交換>バランスなどありません。バランスは全てファンタズムである。「金持ちになれば救われる」と思う底辺を含め、多くの人々は勘違いによって毎日を凌いでいるとギドクは理解します。
勘違いを生きられるというだけで、その人物はギドクの共感対象から外れます。だからギドク作品が戦争や恋愛に関わる共感を描くことはない。戦争のカオスや恋愛のカオスがどうあろうが、「常に既に」<社会>はうまく生きられないものとしてあり、空想がそれを覆い隱すのです。
ギドクにとっては空想を抱けること自体が贅沢です。そこがフォン・トリアー『奇蹟の海』とギドク作品を分けます。ギドク界では<世界>の底に堕ちた者が最後まで救済されない。『奇跡の海』では、最後に鐘が鳴り響くという奇跡が起こり、神の福音が告げ知らされて幕を閉じます。
ギドクは、「神を視界に入れれば、救われなかった者も最後は救われる、誰が見ていなくても神は見ていて下さることが分かる」といった<交換>の空想を許さない。前提を欠いた<根源的未規定性>を空想によって無害化することが宗教の機能だとすると、ギドクは宗教を許しません。
精確に言えばギドクが許さないのは救済宗教ですが、彼が救済宗教を許さない理由を確認すると、<世界>はそもそもデタラメで、「最後に報われる」といった<交換>バランスがあり得ないからです。そこには連載でも触れた<エジプト的なもの>ならぬ<ギリシャ的なもの>があります。
しかし聖書学者トロクメが言うように、そもそもヤハウエ信仰に「罪を雪いだから許せ」といった<交換>の論理=神強制(ウェーバー)を持ち込む営みを、生贄で神を釣るのと同種の瀆神行為だと罵倒したのが、イエス。信仰は<贈与>である。その意味でもギドクはキリスト教的です。